27. アクアパッツァをひとくち。
舞台袖に戻ったジェイクは、興奮で目を見開いていた。息切れしながらもあまりの楽しさを必死に伝えようとしている。
後から戻ったケイトは、もう化粧が落ちてドロドロの顔になりつつも、兄同様にうわごとのような何かを話していた。
渡した飲み物を一気に飲み干すと、二人はユスティーナの手首を掴んで離さなくなった。引き剥がそうとするルイを制止して、彼女は彼らの言葉に耳を傾ける。
「あたしたちには見られるはずのなかった景色が見られたよ。全部、ユスティーナサンのおかげ」
「ああ、俺の人生なんてゴミみてぇだと思っていたが、今日を
喉を絞るように発された声は、ユスティーナの心臓を揺り動かす。彼女は彼らからの素直な称賛に泣いてしまった。
「あはは、あたしと一緒。顔ひどいじゃん!」
ケイトと抱き合うと互いに涙が止まらなくなって、さらに化粧が崩れて……互いの顔を見合って笑った。
退場の指示を出していたシェルマンが舞台袖に戻ってきた。涙や汗で溢れた、ある意味での“惨状”を見て、
「おすすめのレストランがあるのです。私は劇場の片付けでお供は出来ませんが、皆さんでお食事をなさってはいかがでしょう?」
と提案した。けれどもユスティーナがそれを断った。
「シェルマンさんのことです、きっちりした高級レストランを勧めてくださることでしょう。それもありがたいことですが、今日はジェイクさんとケイトさんに肩の力を抜いていただきたいと思っています。尋常ではないほど空腹だとも思いますし……」
後ろに座る兄妹を見遣ると、彼らはエネルギー切れを起こしていた。足を投げ出してぼうっとしている。
彼女が話している間に、ルイは近隣の店を探し始める。手軽で、格式張っておらず、それでいてセキュリティ面でも心配のない店。劇場内のスタッフに尋ねると、良い店がひとつだけ見つかった。
「ユスティーナさま、準備が出来たら参りましょう。手配は済ませております」
「さすがルイね、段取りが良いわ。彼らもあまりにお腹を空かせていることだし、すぐに出発しましょう」
馬車で数分行ったところにある店は、いかにも小料理屋という風だった。がやがやとした治安の悪い店内に、ルイは顔を顰めたが、案内されたのは店の奥にある個室。
ガラスで仕切られたそこには、金箔があしらわれた皿や、劇場のものと似たスワンの置物が飾られている。
兄妹は四人掛けのテーブルに並んで座ると、
「ステーキを二皿、アクアパッツァも二皿、ローストビーフを山盛りで二皿……」
と止まることなく片っ端から料理を注文していく。
店に駆け込む彼らに「お好きなものをお好きなだけ」と言ったのはルイだが、想定外の食べっぷりに頭を抱えた。会計のことを思うと胃が痛む。
しょげるルイを気にすることもなく、ユスティーナも兄妹に感化されたようにたくさん注文する。何を食べても美味しいと喜ぶ兄妹の幸せに満ちた表情を見ていると、確かに腹が空いてくる。
「ユスティーナさま、いくらなんでも注文しすぎではありませんか。あなたはあまり大食い出来ないでしょう。誰が残りを食べると思っているのです」
「ルイだってお腹が空いたでしょう? 毒味しかしていないじゃない。私が食べ終わるのを待っていないで、一緒に食事をしましょうよ」
彼女から差し出された、ふっくらした魚が乗ったスプーンを、躊躇いながらも口に入れる。鼻に抜ける、オリーブオイルと白ワインの香り。
その美味しさに思わず目を見開いたのを、ユスティーナは見逃さなかった。
「ほらね、美味しいでしょう! もっと食べて、もっと食べて」
「ちょ、スプーンを押し付けてこないでください! 自分で食べられますから!」
無邪気なユスティーナと慌てるルイのやりとりを、向かい合って座る兄妹が笑って見ていた。
******
料理の湯気に満ち、調味料の香りが漂う店内。カウンター席から聞こえる人々の駄弁る声。どちらも食事の良い雰囲気を形作る。
「少々外の風に当たってきます」
と言って、ルイはその心地良い小料理屋から出た。案の定、完食出来ないユスティーナのぶんまで食べたので、腹がぽっこりと出ている。
腹をさする手のひらが熱い。情熱に満ちた音楽を全身に浴び、美味な食事を頬張ったからに違いない。外も夏ゆえに蒸し暑く感じたが、風があるので自然とクールダウンされていく。
「僕はこんなに幸せで良いのでしょうか」
誰にともなく呟いた。冬に比べて星が少なくなった夜空には、月がぽっかり浮かんでいる。
小料理屋の前を人が行き交う。多くの人が自分をちらちら見ているような気がして、なんだか居心地が悪い。
その雑踏の中にいたひとりの老婆がこちらに近付いてきた。杖をカツカツ鳴らして、鬼のような形相だ。
「あんた! まさか、あのアーレンバーグの息子かい⁉︎」
腕を引っ掴み、上下に揺さぶられる。老婆の力とは思えないほど掴まれた場所が痛い。
「アーレンバーグ……?」
その名前に聞き覚えがあった。いや、聞き覚えがあるどころか、その名前は。
「僕の本当の苗字だ……」
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