第2話 乗りますか、乗りませんか?

乗りますか、乗りませんか?


 「それじゃあ、おやすみ」

お風呂から上がり、リビングのドアを開けて声をかけると、パパはまたお酒を飲んでいた。

 「おう優斗、おやすみ」

 そう返したパパの目は何だか少し赤い。飲みすぎなきゃいいけど。

 「健斗も、おやすみ」

 そう言うと僕は自分の部屋へと引き上げた。

 ドアを閉め、お気に入りの音楽をかけながら今日の日記を書いた。算数の金沢先生がシャツを後ろ前に着ていたのは面白かったな。僕は思い出してくすくすと笑う。女子が指摘すると先生は真っ赤になって、何やらもごもごと弁解をしていた。弟の健斗にも見せたかったよ。寝る前の習慣になっている日記を書き終え、カーテンを閉じようとした時だった。ずっと遠くの方に、何か白いものがぼんやりと見えた。あれは何だろう? じっと見ていると、それはどんどんこちらに近づいてきた。そして、僕の家の前の道の真ん中にすっと音もなく停まった。

 「乗りますか、乗りませんか?」

 目の前まで来ると、それはどうやらボートのようなものらしかった。真っ白で、三日月みたいな形をしていて、両端が反り返っている。でも、不思議なのは、そのボートが道の上を滑らかに走ってきたことだ。よく見ると、ボートの底の真ん中のあたりが少し道に沈み込んでいるようにも見える。真っ黒なアスファルトの道がまるで海のようにたぷたぷと揺らいで見えて、僕は目をこすった。舟をこいでいるのは、こちらも真っ白な人だった。正確には、真っ白なお面に真っ白なマントを着ているのだった。

 「乗りますか、乗りませんか?」

 真っ白な人は、僕に目を向けて再度問いかける。少し迷ったが、僕はそのボートに乗り込むことにした。夜の町をボートで探検するなんて、今日を逃したら一生できない経験だろう。

 窓を開けて、窓枠に座った。そっと右足をボートに乗せた。ボートは少し揺れたが、もう片方の足も乗りこんでしまうと、揺れながらも安定したようだった。僕が乗り込んだのを確認すると、真っ白な人は再びオールを漕ぎ始める。僕たちは夜の町に滑り出していった。

 なんだか変な気分だ。怖い気持ちも少しあったけど、それよりもわくわくする気持ちが抑えきれなかった。こんな遅い時間に起きていたことなんて今までほとんどない。ましてや、外に出るなんて。街並みは、見慣れたはずの景色は昼間とは全く違った。いつもの公園は真っ暗で、そして何より、何の音もしなかった。静かな世界では、コンビニ袋が風に吹かれて飛んでくるかさかさした音や、どこかで車が走っているエンジン音が大きく聞こえる。そんな中で、コンビニだけが煌々と輝いていた。雑誌を立ち読みしているお兄さんには僕たちは見えないみたいだった。

 「右に行きますか、左に行きますか?」

 真っ白な人が再度声を発した。どうやら、もう少し進んだ先の分かれ道の話をしているらしい。右に行くと僕たちの学校の方へ出る道だ。そして、左に行くと……。

 「右にしよう。……いや、やっぱり左で」

 少し迷ったが、僕ははっきりとそう答えた。真っ白な人は舵を切り、ボートは左の方へ進んでいく。よくお使いに行くスーパーマーケットを越えると、パパが車を買った車屋さんが見えた。かっこいい左ハンドルの車にするか、乗りなれた右ハンドルの車にするか、パパはすごく迷って、最終的にはコイントスで決めていたっけ。そして、パパと健斗と三人で写真を撮った写真屋さん。僕たちにはママがいないけれど、おれたちは三人で家族だ、何もさみしい思いなんてさせないよ、ってパパは言ってた。パパの言う通り、僕はパパと健斗がいれば幸せだった。そして……。その交差点に来たのは、事故以来だった。心臓がどきどきした。いつの間にかボートは止まっていて、僕はその時のことを思い出す。

 あの日は三人で遊園地に行く予定だった。左ハンドルの運転席にはパパ、寂しがり屋の健斗はパパの後ろから腕を回し、そして健斗の右に僕が座っていた。車内には流行りの音楽が流れていたこと、これから始まる最高の日曜日に健斗がはしゃいでいたことを覚えている。突然、トラックが左側から突っ込んできた。それは一瞬のことだったに違いないが、僕の目にはスローモーションに見えた。健斗の左側の窓ガラスが音を立てて割れた次の瞬間、僕は病院のベッドに横たわっている自分に気づいた。目を真っ赤にしたパパが僕の顔を覗き込む。健斗はどうなったの、とは、怖くて訊けなかった。後で聞いたところによると、居眠り運転をしていたトラックの運転手は即死、トラックがもろにぶつかった左後ろの席に座っていた健斗も即死だったそうだ。チャイルドシートを助手席に置いてそこに健斗を乗せておくんだった、まだ小さかったのに、と、パパは毎晩お酒を飲んで自分を責めている。そんなのわかりっこなかったんだから、パパのせいじゃないよ、と僕は何度も言いかけたけど、何の慰めにもならないことはわかっていた。

 「右ハンドルにしますか、左ハンドルにしますか?」

 真っ白な人の問いかけで僕ははっと現実に引き戻される。と、同時に、その言葉の意味を考える。右ハンドルか左ハンドルかだって? 確かにパパはどっちの車にするか悩んでいた。もしかして、あのときのパパの判断を変えられるのだろうか。表が出たら右ハンドル、裏が出たら左ハンドルの車にしよう、と言いながらコインを跳ね上げ、左手の甲に握りこんだパパの右手を思い出す。あの結果が逆だったら、パパは右ハンドルの車を買っていたのだろうか。

 「それって……」

 と尋ねかけて、続く言葉を飲み込んだ。わかりきっている。右ハンドルだったら車内の位置は全部逆になっていたはずだ。つまり、運転席にパパ、その後ろに健斗、そして、トラックの突っ込んできた左後ろに座っていたのは……僕だったはずだ。

 代わりに僕が死ぬってこと?

 そう思い至った僕の心臓が、どきん、と跳ねた。死んでしまったら、もう学校には行けないし、クラスのみんなとも遊べない。パパとも喋れない。大人になることだってできない。心臓は今や痛いほど音を立てている。それは僕が今生きていることを感じさせる音だった。

 でも、健斗だって生きていたかったはずだ。生きて、学校でみんなと遊んで、大人になってプロ野球選手になりたかったはずだ。泣き虫だった健斗。いじめっ子にいじめられると、いつも泣きながら家に帰ってきた。そんなやつやり返してやれ、といくら発破をかけてもべそをかくだけなので、僕が代わりにいじめっ子にやり返しに行ったこともあった。ずっとお兄ちゃんとして、健斗を守っていこうと思っていた……。

 真っ白な人に返事をしたそのとき、僕の意識はふっと掻き消えた。

 目覚まし時計の音で目を覚ますと、自分の部屋のベッドの上だった。あれ、夢だったのかな。夢にしてはいやにリアルだったけど……。

 「おはよう、パパ、健斗」

 いつものようにリビングに入り、パパと、それから健斗の遺影に声をかけた……つもりだった。

 「健斗!?」

 なんとそこには、ちょこんと座った健斗と、信じられないという顔をしたパパがいた。

 「優斗、おはよう……」

 「お兄ちゃん、おはよう!」

 いつもとは違い、二人分の返事が返ってくる。やっぱり、あれは夢じゃなかったみたいだ。健斗が生き返っている! ……でも、どうして僕も生きているんだろう?

 何が何やらわからなくて、僕はおずおずとパパに声をかけた。

 「パパ、僕、昨日変な夢を見たんだ。真っ白な人のこぐ真っ白なボートに乗って、町を探検する夢だよ」

 それを聞いたパパの見開いた目を見て、パパも同じ夢を見ていたことを確信した。

 「それで、優斗はなんて答えたんだ? パパは、少し早めてくださいってお願いしたんだ。」

 「え? 何のこと?」

 どうやらパパと僕では最後の質問が違ったらしい。

 「優斗は違ったのか? パパは、『早めますか、早めませんか?』って聞かれたんだ。すぐにわかったよ、つまり、あのトラックが飛び出してくる時間のことだ。トラックが飛び出してくる時間が後コンマ何秒早かったら、運転席にいたパパが死んでいたはずだったんだ。もちろんパパはすぐに早めるようにお願いして、健斗の代わりに死んだつもりだったんだが……」

 パパと僕はしばらく顔を見合わせていた。僕は朝起きて間もない頭で一生懸命考える。ええと、車の左右が入れ替わって、同時に、事故が起きた時間も早まったってことは……、そこまで考えて、ようやく合点がいった。つまり、トラックは誰も乗っていない助手席に突っ込んだことになったのだ。トーストをかじっている健斗の顔、まだ状況を理解していないパパの顔を順に見て、僕はにっこりと微笑んだ。僕が見た夢の話は、この後ゆっくりとしよう。そして、今日こそ僕たちの家族写真を撮りに行くんだ。

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