第5話【野良犬すら食わない】

 俺は、敗北した。


 あの巨漢、ボルドローを殺害して驕り高ぶっていたわけではない。


 木剣が、重なり合うたびに気力が削がれていく感じがした。


 俺の心に満ちた殺意が。


 まるで、大空を覆い隠す雨雲のように、俺の心から光を閉ざした。


 俺は、空を見上げる。黒い雲が、視界を不明瞭に重くさせていく。


(言い訳だ。俺は弱い。あの太った豚野郎のようにいかなかった。もし、相手がアンベールであったら、命はなかったな……クソっ)


 ルグラン家に拾われ、家中のものには守り神だと煽てられてはいたが、他家から見れば汚い案山子だ。


 殴られ、蹴られた記憶が、脳に焼き付いて離れることはない。


 俺は、ただの一度だって、痛みを感じたことも屈したこともないのだ。


 自分は、強いのだと信じていた。しかし、ただ打たれ強いだけである。


 それだけでは、英雄などにはなれない。ましてや、皇帝など夢のユメ。


 一歩一歩だと、アルウィンは言った。時間がないと、俺は返してきたのだ。


 駆け上がる先は、見えているのにいつまでも、階段が見えない。


「リシャール団長、聞いていますか?」


 俺は、フェリシテの声で目を開ける。


 手には、ネズミのような顔をした男の絵が描かれている資料を持っていた。


 一瞬、目の前が青白く光った。窓を見る。凄まじい雷鳴だ。アニュレ峠の方だろうか。


「うわぁ、どこかに落ちたかな。イストワール王国の砦ならいいね。あははっ」


 アルウィンは、資料に花押を押しながら、明るい声を立てて笑う。


「ネズミだ」


 俺は、資料の書かれた顔の所見を述べた。我ながら、情けなくも負けたことが、相当にショックらしかった。


「いえ、リシャール団長。エメット・ブラッカーですよ。団員の名前は、覚えてください。25人しかいないのに……」


 フェリシテは、眉宇をしかめる。さらに、小さく息を吐いた。


「ふん、誰かは伝わったんだろう? ならいい。くだらない」


「リシャール団長? 貴方の部下なのよ?」


 フェリシテは、小鼻をふくらませる。高圧的な顔立ちは、見ているだけで怒りを覚える。


 俺は、今まで何の話をしていたのかを思い出した。怒りが引き金になったのだろうか。


 黒曜騎士団の第一騎士隊の隊長を決めるための話し合いをしていたのだ。


「名前なんてどうでもいい。ネズミは、第一騎士隊の隊長だ」


 俺は、手に持った資料を机に叩きつけた。フェリシテは、胸の前で腕を組む。


「資料を最後まで読みましたか? ブラッカーに隊長は、無理だと思うのだけれど?」


「俺の決定に従えないなら、お前も副官は無理だ。他のやつにやってもらうとしよう」


 フェリシテは、机を叩いて立ち上がる。


「団長に独裁権はないわッ!?」


 俺は、腕を広げて首を横に振る。わざとらしく、ため息をついてやった。


「アルウィン。副官殿は、怒りをコントロール出来ないようだ。コイツは除隊だ」


 アルウィンは、花押を置いてフェリシテを見た。いつもの笑みはなく、真剣な表情だ。


 窓を叩きつける豪雨と落雷の音。フェリシテは、席について、深呼吸をした。


「私の名前は、フェリシテです。お前でもコイツでもないわ。リシャール団長、私は副官の役割を果たしているだけです」


 俺は、落ち着かない気持ちを鎮めるために座り直した。机に置いたネズミの資料を持ち上げる。


「リシャール。フェリシテは、献身的だよ? それにね。除隊命令は、正当な理由が必要だし、それぞれの家にも事情を説明する必要もあるし、大変だよ。リシャールがやるなら、止めないけど?」


 騎士は、ほとんどが貴族や、その子弟がなるものだ。それ故に簡単に除隊できない。


 失態がない騎士を除隊すれば、それを命令した団長が不利益を被ることになる。


 フェリシテの実家は、ベンネヴッツ侯爵家だ。敵に回すと厄介なことになるだろう。


例え、潔癖から他家に預けられた娘だとしても。


 ルグラン家に拾われた野良犬程度の命など軽いものだ。だからこそ、フェリシテは、余裕があるのだ。


 端的に言って、俺を馬鹿にしている。それが、献身的とは、アルウィンの目も節穴だ。


「あの、リシャール団長。私は、除隊ですか?」


 俺は、ネズミの資料をもう一度確認する。


 優柔不断であり、一人でいることを好む。


 治癒能力に一定の才能がある。しかし、性格から治癒術士には向かない。


 総合評価F。


(なんだ、コイツ。よく騎士に叙勲されたな。確かに、フェリシテの言うとおりだ。隊長どころか、騎士にも向かない……)


 重苦しい雰囲気だ。いまさら、フェリシテが正しかったとはいえない。


 俺にだって、プライドがある。


 窓を破壊するのではないかと思うほど、雨足は強くなっていく。


 ここは、傲慢さで押し切るしかないだろう。頭を下げることは、二度目の敗北を意味する。


「ふん、ならどうなんだ? お前は、誰がふさわしいと思う?」


 アルウィンの一笑する声が耳に届いた。


 フェリシテは、特に反抗的な態度も取らずに机の上に散らばった資料を探している。


「ビタン・ブラームを推挙します。名門ブラーム伯爵家の三男で、人望もあり成績も優秀です」


 フェリシテは、手に持った資料をこちらに渡してくる。俺は、あえて乱暴に取り上げた。


(確かに、ネズミよりはマシだな。恐らく、こいつに任せれば全て丸く収まるのだろうな……)


 俺は、他の資料にも目を向ける。このまま認めるのは、負けた気がするのだ。


 二度目の敗北は、ありえない。


「流石だね。フェリシテ。僕もブラームでいいと思うよ。彼は、ブラーム家の三男だ。責任あるポストにつければ、やる気も出るだろうからね」


 アルウィンは、そう言って笑みを浮かべる。


「はい。アルウィン様。ブラームは、今まで機会が与えられなかったのです。きっと、誰よりも努力を惜しまないと思いますわ」


 フェリシテの瞳は、夕日を受けて揺れる稲穂のように輝いていた。


 涙でも流しそうなほどだ。表情は、柔らかく満開に咲き乱れる花のようだ。


「俺が、団長だ。俺が決める。こいつだ。この平民出を第一騎士隊の隊長にする。異論は認めんぞ」


 俺は、名も知らない男の資料をフェリシテの前に叩きつけた。


「リシャール団長……。言わせてください。彼には、荷が重すぎると思いますけれど?」


「貴族のお坊ちゃんやお嬢ちゃんよりは、役に立つ。野良犬のほうが、飼い犬よりも強い。強いやつが隊長をやるべきだ」


 フェリシテは、アルウィンを見る。困ったら、男に頼ろうというわけだ。


 アルウィンが意見を通すならば、それでいい。俺は、フェリシテに負けたのではない。


 俺を拾った飼い主に負けただけのことだ。それならば、面子も守られる。


「第一騎士隊隊長は、君、フェリシテに次ぐ第三位だ。本当に良いんだね、リシャール?」


 フェリシテは、俯いた。


 どうやら、アルウィンの援護射撃を受けられそうにない状況になって、戦意を喪失したのだろう。


(ふん、勝ったな。ワガママに育てられたお嬢様がッ。胸くそ悪い……)


 アルウィンは、団長が決めたことなら仕方がないと、フェリシテを励ましている。


 俺は、その光景が堪らなく腹立たしかった。フェリシテは、アルウィンの慰めを素直に認めたのだ。


 俺の臓物から湧き上がる怒り。爆発を押さえられそうにない。


「後の人事は、適当に決めておけ。俺は、頭の中に花の咲いた奴と一緒の空気は吸いたくないからなぁ」


 フェリシテは、黙ったままで俺を睨みつけてくる。俺は、これみよがしに鼻で笑ってやった。


 そして、アルウィンの執務室から退室したのである。


 第一章第5話【野良犬すら食わない】完。

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