黒曜

隠れ里

序章【作中作】

第1話【呪われた名前】

 終わった。この世界に生まれて、この国で、これまで歩んできた地獄の日々が終わったのだ。


 地獄からすくい上げてくれた手は、小さくて綺麗だった。俺の好きな青い月のようだ。


 その声は、なんとも柔らかい。色と形をつけるならば、まっさらな雪だろう。


 雪など見たことはない。だからこそ雪に例えたのだ。


 背格好だけ見ると、俺と同じ年頃の子供だろうか。


 俺は、憎き男を手にかけて笑っていたのだと思う。何故なら、心の底から嬉しかったからだ。


 男の子は、ただ、一言。


「きみ、すごくカッコよくて、つよそうだね。なまえはなんていうの?」


 ときより帝都からくる上客が、着ているものなど比較にならない。


 服が、光っているのだ。使われている素材が違うのは、俺のような男でも分かる。


 男の子の微笑みは、穏やかで健康的な肉がフワッと動いていた。


 男なのだろう。でも、女にも見える。


 美味しそうだな。


 俺は、声をかけてきた身分の高そうな男の子に、そんな考えがよぎった。


 胃が収縮する音が聞こえた。でも、もう我慢する必要はない。


 お腹が空いたら、大きな声で叫んでもいい。もうすでに胃は、遠慮なしに叫んでいるのだ。


 男の子は、俺の考えなど気にすることもなく再び名前を聞いてきた。


 呑気な声だ。太陽のようだ。俺が、手の届かないところから声をかけてくる。


 名前などあるはずもなく、考えたこともない。


「そうか……僕からか。僕のなまえは、アルウィン・ルグラン。きみは?」


 アルウィンの顔は、ずっと笑顔だった。こんな汚い場所にでも花が、咲くのだと教えてくれた。


 俺は、周りを見る。転がる死体たち。


 倒れていた火の輪が、騎士に踏まれて最後の火をはぜさせていた。


 芸を仕込まれるだけのピエロたち。俺を残して舞台の隅の方で一つになって震えている。


 俺の側で、みんなを家畜のように扱ってきたサーカス団の団長が、苦悶の表情で絶命していた。


 俺たちに鞭をうって、肥えた腹。欲のつまった肉は、真っ黒な燃えカスになっていた。


 まるで、腐葉土のようだ。


 この日、多くの魂ある人形を見世物にしていた『リシャール・サーカス団』は、終わった。


 知ってか知らずか国を裏切っていた客は、次々と騎士たちに連行されていった。


 嗤う立場が、嗤われる立場に変わるのだ。


 リシャール・サーカス団は、得た収益を敵国であるイストワール王国に流していた。


 ターブルロンド帝国が動いたのは、俺たちを助けるためではない。


 しかし、この子は……


 俺だけを見て、俺に手を差し伸べたのだ。


「リシャールだ。俺の名前は、リシャール」


 俺は、今。まさに、この世界に生まれた。


 物心ついた頃には、自由を奪われていた。嘲笑と鞭を喰らわされてきたのだ。


 その、もっとも憎悪すべき名前を自分につけるのだった。


 何故なら、それしかなかったからだ。俺が、心の底に刻みつけた憎悪の代名詞。


 それ以外には、なかったのである。


 *


「へー。きみはどこで生まれたのかもわからないの。なまえも自分でつけるなんてすごいよね」


 俺だけは、アルウィンたちに拾われて馬車に乗せられた。


 馬一匹にしても、その皮膚は、団員たちが持っていた宝石細工など立派だ。


 彼らは、石ころを磨いていたのだと、分かる。


「気が付いたら、サーカス団でピエロをやっていた……」


 芸を仕込まれ、客の前で披露するだけだ。しかし、俺は、他の奴らと違っていた。


 いや、あの子もそうだったか……


 洗脳されることもなく、芸を披露することを当然だとも思わない。


 他の奴らと違う。サーカス団の団長を親だと思ったことはない。


 必ず、ここから自由になって


 自由になって……


「僕はね。カッコよくてつよいものをさがしていたんだ。きみは、ルグラン家の守り神になるために生まれてきたんだよ?」


 アルウィンは、満面の笑みでそう語る。自由になったあとは、何をすればいいのか。


 そもそも、自由とはなんなのだろう。


 鳥のように大空を飛ぶことか、誰かを犠牲にして、金を稼ぐことなのか。


 アルウィンが、それを教えてくれるのか。一緒にいれば、その答えを得られるのだろうか。


 馬車の窓から風が吹き込んでくる。紫の草原は、葉を揺らしながら甘い匂いを風に乗せていた。


 この国の名前は、ターブルロンド帝国。


 この精霊世界リテリュスの中で、一番大きな大陸であるアンフェールの南部に位置する。


 サーカス団で、芸を仕込まれている間に団員たちの会話から知ったことだ。



 *



 アルウィン・ルグランは、ターブルロンド帝国の伯爵。貴族の一人だった。


 帝都の貴族街にある大きな白い建物に住んでいて、中庭には、見事な庭園がある。


 皇帝から貰ったという龍の石像を、池の真ん中に安置している。


 水面の反射光で、鋭い目が鈍く煌く。まるで、俺を睨んでいるかのように感じる。


 アルウィン・ルグランの父は、俺をルグラン家の養子に迎えた。


 意外だ。すんなりと受け入れられたことが。


 俺を守り神と呼んだアルウィンを、アルウィンの父もルグラン家の誰もが信じた。


 さらに、武芸を学ばせるためにアルウィンとともに、学校にも通わせるというのだ。


 無論、従者としてだが、授業を見学することができる。


 俺は、自由のその先を目指すために他の生徒から少し離れた位置で、学び、修練を重ねた。


 第一話【呪われた名前】完。

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