短編・桜

村上 耽美

桜について

 私は、桜が大好きで御座いました。儚いあの桜に、密かに恋をして居りました。一本だけでは無く、其れ等で花見ができる程の数でした。其の美しさに、毎日見惚れて居りました。花は何れも儚いものですので、総てが其処に咲き続けることはありませんが、枯れたその樹木も又、何か心を少しずつ動かして居るのであります。人の夢と書いて儚いと言うのは良い言葉だと感心して仕舞います。

 其の桜たちは私の周りを囲み、毎分毎秒花弁を降らせて居ました。桜の香りは私の髪にも纏い、鼻腔から肺に取り込まれて、五臓六腑に行き渡り、細胞もきっと顕微鏡で見たなら桜の花弁を模って居る事でしょう。実際、私の吐く息は甘い空気とメランコリーで出来ていて、私自身の自己世界で循環しています。


 偶に、其処の世界に雪だとか別の物体物質が降ってきて、私の頭にこつんと痛みを感じさせるのです。然し、其れも後に柔らかな土壌に埋って桜の大きな樹に成るのです。そして私の空っぽな頭蓋の中の身は、痛みも涙も後悔も忘れて、のうのうと又空気に酔い痴れます。酒や煙草のやうな嗜好品は御座いませんが、其れをも埋める桜はやはり私の一部なのでしょう。


 まだ私が外の世界に住んで居た頃、もうその時点で、私は此処に住む事が神によって事前に決められていたのだという考えに至りました。梶井基次郎の『桜の樹の下には』を読み、坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読み、太宰治の『桜桃』など、手元にあった桜に纏わる作品は何度も読み返して、涙を流し、心を動かされ、嗚呼、この世界に満開の桜の木が咲いていれば、青春に咲かなかったこの桜を、いつか満開にしてから自分自身を終いたい、という欲望を抱くように成ったので御座います。


 それからといふもの、春になりますと、のこのこ布団から出てきて、寝間着から多少まともな恰好に着替え、鞄の中に本を何冊か入れ、気が向けばレジャーシートを持ち、飲料を何処かで調達し、川沿いの土手に行くのでした。そして満開の桜の下でその空気に耽って居りました。そのまま眠りに入ることも何度かあり、女性且つ若いということで父母から軽く叱られ、それでも次の日にはまた其処へ向かい耽りに耽って寝て仕舞うのでした。


 桜の下で眠りに就く時の、なんともいえぬ此の視界。瞼の血管が太陽に透かされているのか、はたまた桜達の色が、遠のく意識にぼやけて見えているのか。それが理解らないことすらも、またひとつの快楽でありました。


 私は今、こころがとても穏やかなのです。四方を桜に囲まれ、私自身の細い息と、滾る体液も総て、桜なのです。理解りませんか、でも、それを私は望んでいるのです。理解などされなくても、此処には誰もいないのです。桜と底に沈む私が存在するだけ、それだけです。

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