違和
今日の紫音くんのお誕生日配信は途中から様子が変だった。
ボタンを一つ掛け違えた程度の気づくか気づかないかわからないレベルの違和だが、そういうものに侵食されて日常は壊れていくものだ。
「アスナ」
ノックもせずに部屋に入ってきた「彼」の考えなしの微笑みに口の端が歪む。
「ノックくらいしてよー」
「配信終わったの?」
謝罪の言葉もなしに「彼」は続ける。
「うん」
「お風呂、入ってきたら?」
「うん」
「彼」に与えられた部屋のドアに手をかけた瞬間、その手が「彼」に絡め取られた。
「何?」
「明日朝早い?」
「昼から講義」
「じゃあ、ベッドで待ってる」
その瞬間、私は「彼」を突き飛ばしていた。
「彼」はいつも通り少し驚いた顔を見せた後に、いつもの考えなしの微笑みを浮かべた。
「やっぱりだめ?」
ヘラヘラと微笑む「彼」に背を向けドアを乱暴に閉めた。
洗面所でボタンを一つずつ外しながら「彼」との出会いのことを思い出していた。
「彼」は私のファンの1人だった。私の投稿に反応したり、配信でコメントしたりする有象無象の1人でしかなかった。
その関係性が変わったのは、「彼」が私に送ってきたDMがきっかけだった。
「あなたを有名配信者にするお手伝いがしたいです。」
「彼」からの最初のDMはこれだけだった。
私は紫音くんやクロミネくんみたいな有名な配信者ではなく、大学生活の傍ら、趣味で活動を行っているだけだった。
ただ、有名になりたい気持ちはあった。
承認欲求を満たしたいわけではない。
有名になって、紫音くんかクロミネくんのどちらかと結婚したい。
私が本当に「愛する」ことができたのは彼らだけだったから。
「彼」には私の屈折した思いの全てを話した。「彼」を好きになることはないこと、紫音くんとクロミネくんのどちらかと結婚したいと思っていること。その全てを。
「それでもいいよ。僕は君のことを応援したい。」
「彼」はそれなりのボンボンで、私の下宿の近くに豪邸を構えて暮らしていた。
「彼」の豪邸で住んで、配信設備も整えてもらう。
「彼」から提示された待遇は、有名になりたい私にとっては好都合だった。
奇妙な運命が重なって、3ヶ月近くこの歪んだ関係を続けるに至っている。
その中で、「彼」は私のことが好きらしいということが分かった。
好きだから、身体の関係を欲しがる。
好きだから、私の活動を無償で応援する。
好きだから、いつか想いが届いてほしいと思う。
そんな当たり前の「彼」の気持ちに私が微笑み返すことはきっとない。
「彼」とは出会った頃からボタンがずれていたんだ。やっぱり、カバンについていた缶バッジを手で隠したあの子の気持ちが痛いほどよくわかる。あの子は紫音くんへの気持ちに自信が無いのだ。
「好き」だけれど結婚はできない。その覚悟はない。
結局自分の自己満足の「推し事」になっているのではないか。
そのような疑問があの子の中を巡っているのだろう。
それは、届くことのない紫音くんへの気持ちを届ける覚悟すらない中途半端な愛。
それは「彼」が私に向けるものときっと同じだから。
私を支えていればいつか振り向いてもらえるかもしれないと思いながら、「紫音とクロミネなんて放っておいて、俺と一緒になってくれ。俺の方があいつらよりお前を幸せにする」という言葉すら言うことができない。
そんなんじゃ、私を救ってくれた彼らに一歩も届かないよ?
一種の呆れと落胆を感じながら、私は今日も「彼」が甘えながら持ちたがる営みの関係を拒み続けるのだ。
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