弔いの花婿
再び千景がそこを通ったのは、二日後のことだった。
梅雨の合間。雨の小休止。薄く広がった雲の隙間から、日の光が降り注ぐ。
「あら、また会った」
教会に縛られた花嫁は、まだそこに居た。相変わらずの朗らかさで、教会の門の前に佇んでいる。
「お迎えはまだ?」
「そうでもないよ」
訝しむ千景に、美雨は道の向こうを示した。自動車が走り抜ける隣の歩道を歩いている男がいる。黒のシャツを羽織った清潔感のある三十代手前の男性は、手に薄紅の紫陽花の花束を持って、こちらへと向かってきていた。
「私の旦那様」
千景は美雨のほうを振り返る。になる予定だった人、と付け加えて、悪戯っぽく笑った。
千景はもう一度男をまじまじと見つめた。男は確かに人間だった。美雨とは違う、この世に居残る者だった。
「死んだとは言っていないよ」
朧気な記憶を浚う。確かに、死んだとは言われていなかった。
だとすれば、尚更花嫁の行動に呆れる。彼がどれほどの事故にあったのかは知らないが、例え生死を彷徨っていたとしても、まだ結婚の可能性は残されていただろうに。
何となしに見ていた千景の視線に気が付いたのだろう。花束を持った男は怪訝そうにしていた。千景の目の前――式場の門の手前で立ち止まると、居心地悪そうにそわそわと視線を彷徨わせる。
「美雨さんのお知り合いですか」
仕方なしに助け舟を出した千景は、知らぬふりをして尋ねる。彼ははっとした表情を浮かべ、目を丸くしたまま頷いた。
「もしかして、君も?」
「ええ。お店で何度かお世話になりました」
生前は服飾店の店員をしていたという美雨の助言に従って、話をでっち上げる。
そうなのか、と頷く男は、美雨と同じく普通の――取り立てて特徴のない男だった。素朴そうで誠実そう。顔の造りは良いほうと評しても良いだろう。同じような印象の美雨と並べば、お似合いといえそうな感じだった。
「僕は……永友といいます」
躊躇いながら、男は名乗る。一年前、美雨と結婚する予定だった男だ、と。
「どうして此処に?」
「それはもちろん……今日が、彼女の命日だから」
君もそうだろう、と尋ねられて、一つ頷く。美雨がその通りだ、と隣で補足した。
結婚できないと知って命を断つほど執着していた相手を目の前にしても、美雨は不自然なほど冷静だった。彼の登場に喜びを見せるわけでもなく、ずっと楽しそうに千景に貼り付いて、永友のことを観察している。
「それと、報告に」
やはり気まずそうに付け加えられた言葉に、千景は視線を上げた。そういえば、彼の方もまた、少しばかり違和感がある。彼女の浅はかさが一番とはいえ、自分の所為で命を断った女に対して、罪悪感は抱いているし、悼む気持ちもあるようだが、哀愁というものがあまり感じられなかった。
「報告?」
「僕、今度結婚するんです」
千景の眉がぴくりと跳ねる。横目で窺ったこの世の者ならざる花嫁は、笑みを浮かべた表情を崩さぬまま、静かにそこに立っていた。
「美雨の……妹と。来週、ここで式を挙げるんです」
千景の眼はすっと細められた。隣の美雨が動揺した様子が感じられなかった。知っていたのだ、と悟る。この場所に縛られた地縛霊は、きっと彼らが式の準備に来るのを幾度となく窺っていたことだろう。
じっと見上げた先で、永友は呵責に苛まれている様子だった。それでも、長い時間を掛けて準備をしてきたからか、引き返す気はないようだ。
「不謹慎だと、思うでしょうね。でも、彼女となら、同じ痛みを分かち合うことができるから」
永友はそうして、教会に目を向けた。微風が男の前髪を揺らす。その下にある瞳は穏やかに、けれど力強く光っていた。まるで自らの決意を示すように。
「だから、美雨に赦しを貰いにきたんです。彼女と夫婦になって――一緒に美雨を弔っていく、その許可を」
千景は一度ゆっくりと瞼を閉じた。欺瞞だ、とは口にしなかった。ただ一言、そうですか、とだけ応える。
「もし赦してくれなくても……僕は一生を懸けて、彼女に赦しを請い続けます」
そうして男は千景の脇にしゃがみ込み、煉瓦模様の塀に紫陽花の花束を立てかけた。両手を合わせ、瞼を伏せて、視えない美雨を拝む。
長いこと手を合わせたあと、男は千景に一礼して立ち去った。明らかに年下である千景に対して、侮ることなく礼儀正しい男だった。
「浮気をね、されてたわけじゃないの」
千景の隣で永友を見送る美雨は、そう言った。
「私への想いがなくなってたわけでもない。でも、あの人は自分でも気付いてなかったみたいなんだけど――妹に、惹かれ始めていた」
美雨は、零れ落ちたものを掬い上げるかのように持ち上げた白い手を握った。視線が拳に落ちる。
「でも、あのときはまだ私に分があった。彼にきちんと愛されていることを感じていた。妹に向けるのはまだ興味の範疇で、気持ちはまだ出来上がっていなかった。だから、今結婚さえしてしまえば、その小さな想いもいずれ消えていくだろうと、賭けてたの」
だが、美雨の希望は虚しく、結婚式は中止になった。
結婚式のその日がタイムリミットだと、美雨は思っていたのだ。その日を過ぎれば、彼は美雨ではなく妹のものになる。書類上の婚姻関係も、それを止めることはできないのだと、美雨には確信があった。
美雨は拳を開いた。花嫁の手袋がはめられた掌には、何も残されていなかった。
「もう駄目だと思ったの。彼は私のものではなくなった。なくなるんだと思った。彼はきっと、妹に奪われてしまうって、そう思ったら――生きていられなくなって」
そうして、美雨は首を切った。
彼が美雨のもとから去る現実より、自らの死を取った。
彼が他人の物になる苦しみより、一瞬の痛みを選んだ。
「もともとね、家族とは折り合いが悪かったの」
朗らかな彼女だが、両親との間には微妙な齟齬があり、それが不協和音を奏でていた。埋めようと必死になればなるほど、音の軋みは大きくなり、耐えかねた三人は、とうとう美雨が成人となったそのときに、全てを諦めてしまったという。
「でも、困ったことに実家を離れることもできなくって」
生きづらさに思い悩んでいたときに出逢ったのが彼だった、と美雨は言う。異音ばかりを出す美雨を受け入れ、合わせてくれた。美雨の世界は新しく広がり、輝きはじめた。
「だから私には、彼が必要だった。失うのが怖くて、ずっと縋りついていた」
愚かでしょ、と美雨は笑う。乾いた声。自嘲の表情。馬鹿げたことだと自覚していながら、そこから抜け出せなかった自分の悲哀を、彼女は嘲る。
「それで?」
千景は何も評せず、ただ問い掛ける。
千景の認識によれば、美雨の望みは果たされた。彼の〝良心〟を目の当たりにしたはずだ。
「そうだねぇ……」
美雨は顎に手を当て、俯いた。ドレスの脇に左手とともに落とされた紫陽花のブーケが、永友の備えた花に近づく。片方は青。もう片方はピンク。土壌により色を変えるその花は、美雨の好きな花なのだと千景はすでに聴いていた。
「うん。私、式の日まで留まることにするよ」
一つ頷き顔を上げた花嫁は真っ直ぐに千景を見つめて言った。未練を捨て、吹っ切れた表情。
「二人を見届ける」
祈るようにブーケを抱え、教会を見上げた美雨の瞳は、決意に強く輝いていた。
それは奇しくも、花婿の瞳の色と似ていた。
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