祝福の鐘は良心の下で鳴り響く

森陰五十鈴

雨に佇む花嫁

 頭上に広げた紺色の傘が、ぱらぱらと小気味良い音を立てる。

 雨の紗はあるものの、視界は良好。三階建てビルディングに挟まれた二車線道路のつまらない景色も澄んで見える。

 だからこそ千景は、教会の門に佇む女の姿が、見間違いでない本物だと認識した。

 彼女は、花嫁だった。

 真っ白なAラインのドレス。ベースは艷やかなシルク。腰の下から広がる裾には小さな花柄のレースが被せられている。肘まで覆うシルクの手袋をした右手には、青い色の紫陽花のブーケ。左手は裾を託しあげ、それを右に左にと振りながら、七センチのヒールで小さくステップを踏んでいる。

 栗色に染めた髪は、ローシニヨン。小さなティアラの下のベールは既に上げられていて、二十代半ばくらいの、取り立てて特徴のない顔が空を仰いでいる。

 ラメ入りのローズピンクの唇からは、何かの歌が漏れていた。


 アーモンド型の黒い眼と、視線が合う。


「あら?」


 歌が止まった。左右に揺れていた身体も動きを止めた。花嫁はまじまじと千景を見つめ、瞼が何度かしばたたく。


「いやだ。恥ずかしいところを見られちゃった」


 花嫁は、恥じらいを証明するかのように、ブーケを持つ右手を頬まで持ち上げた。顔を隠すようでありながら、右目はしっかりと千景のほうを見つめている。

 千景は小さく息を吐いた。ローファーの足を止め、傘の柄を首で挟み、通学鞄を持たない右手で長い横髪を耳に掛けると、十七の年齢に見合わない達観した眼でもう一度花嫁を一瞥する。


「……貴女、どうして此処に?」


 夜風のようなアルトが、花嫁に投げかけられる。


「見て分かるでしょ?」


 花嫁は両腕を開き、自らの恰好を見せびらかした。


「結婚式をやっているようには見えないわ」


 千景は門の向こう、広い駐車場の先にある教会に視線を向けた。大理石のタイルで造られた十段の階段の上には、明るい色の煉瓦で造られた風の五角形の建物。丸く長いアーチの下に重そうな観音開きの木の扉がある。五角形の建物に寄り添うように尖塔があって、屋根の下から大きな鐘が覗く。

 シンプルながらも洒落た教会は、まさに結婚式のためのもの。ただし、建物の中も外も、雨の音に呑まれて静まり返っている。


「まあね」


 花嫁は、ドレスの後ろに手をやった。


「私の式、去年の予定だったし」

「だから未練があって、化けて出ているの?」


 千景の言葉に、女は寂しそうに微笑んだ。

 雨の下に在りながら、花嫁は、その髪も肌もドレスも、何一つ濡らしていなかった。降り注ぐ雨粒は、彼女を透過すらしている。この世の者でないことは、一目瞭然だった。


「少し違うかな。私はね、あの人が来るのを待ってるの」

「あの人?」

「花婿さん。私の旦那様になる人」


 千景は、無感動な目で心を見透かすように、彼女を見た。


「気になる?」


 花嫁は、手を後ろに組んだまま前のめりになり、千景を見上げる。


「別に」

「嘘。本当は気になるから、私のこと見てたんでしょう」


 首をわずかに俯けて、千景は考え込んだ。幽霊など見慣れているのだ、確かに素通りしても良かったはずだ。なのに自分は脚を止めた。その理由は。


「聴かせて」


 顔を上げ、傘の縁から顔を覗かせた千景は、薄い唇からそう溜め息を漏らした。




 彼女の名前は、美雨といった。姓は、明石から永友に変わる予定だったらしい。

 だが、それは叶わなかった。


「いよいよ結婚式ってときにね、私の旦那様が事故にあったの」


 交通事故だそうだ。早朝、式の仕度を受けるのに自動車を走らせていたところ、交差点で信号無視した車に突っ込まれたのだという。


「当然、式は中止。報せを聴いた私はね、〝今日結婚できない〟って知って」


 ――その場で首をね、切ってしまったの。


「馬鹿ね」


 千景が呆れ果てたのは、無理のないことだろう。

 向けられた侮辱さえ言える言葉に、しかし美雨は拗ねたように口を尖らせただけだった。


「だって、ずっとその日を心待ちにしていたんだよ? 前日の夜なんて、期待で胸が膨らみすぎて張り裂けそうだった。なのに、彼と結婚式を挙げられないって知って、私……」


 膨れ上がった期待が、破裂したときの反動が大きかった。美雨の心は絶頂から一気に谷底に落とされて、粉々に砕け散ってしまったという。目の前は真っ暗。足元は覚束なく、身体は芯から冷えていく。

 そのとき、美雨の目に飛び込んできたのが、剃刀だった。


「運良く一回で済んだの。痛みなんてほとんど感じなかったな」


 悲壮感などおくびにも出さず、美雨は笑った。どれほどの傷を付けたのだろうか。だが、幽霊となった彼女の首には、傷跡は見当たらない。


「でも、未練があったのね」

「そうだね。やっぱりどうしても私は、結婚したかったみたい。お陰で、地縛霊になっちゃって」


 そしておよそ一年、この教会に棲んでいるのだ、と美雨は言った。


「送ってあげましょうか」


 変わらぬ冷淡さで、千景は提案する。浮世離れした夜のような少女を、美雨はまじまじと見つめた。


「え、できるの?」

「多少心得はあるわ」


 美雨は感心したように千景の顔を見つめた。それからしばらく考え込み――首を横に振った。


「せっかくだけど、遠慮する。私、あの人の良心に賭けているんだ」


 千景は目をすっと細めた。


「良心?」


 だが、美雨は意味深く微笑むだけだった。

 それからふと空を見上げる。雲が広がった灰空は、その色を濃くしていた。


「そろそろ雨が激しくなりそう。ごめんね、雨の中引き止めちゃって」


 早く帰ったほうがいいよ、と美雨は千景を促す。話を聴き終えて特に用事がなくなった千景は、話の礼だけを告げて、再び帰途へとついたのだった。

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