うちの職場は笑顔が少ない
ゆずしおこしょう
第1話
「創太くーん、店の前の掃除してきてー」
「はーい」
扉を開くとカランカランという心地よいベルが頭上で鳴り響く。
それと同時にぶわあっと吹き込んでくる冷たい風が全身を包み込み、自然と背筋が丸まってしまう。
「ううー、さっぶうー」
ワイシャツに黒のスラックスと黒の前掛けだけでは、2月の北風を長時間浴びるのは辛いものがある。
20代前半の頃にはまだ平気だったような気がするが、5年でめっきりと寒さに弱くなったように感じる。
「よいしょっ」
急いで玄関の内側にしまってあったメニュー表を抱えて、玄関の脇に設置した。
風で飛んでしまわないようにしっかりとクリップで固定したメニュー表には、「イタリアンレストラン『KOKI』」の文字とパスタやピザ、サラダなど定番のメニューが乗っている。
メニューを固定したら、屋内に戻って、玄関横のレジの裏から掃除用具を取り出す。
そして、覚悟を決めて再びドアノブを握る。
「よし、いくぞさぶうぅ……」
腹のそこにぐっと力をいれて、慌てず急いで店の周囲を箒で掃いていく。
幸いにもごみの量は多くない。さっとやって終われそうだ。
ロールカーテンが開かれていくのが視界に入る。奥さんの光希さんが開けたのだろう。
ふいに改めて店を眺める。90年代の香りの漂う色褪せたピンク色の一軒家を改築した店の外観は、地方都市の駅前から離れた住宅街のどこか寂れた雰囲気に、とてもよく馴染んでいる。
もう20年以上営業しているこの店は近所の住民や企業の「ちょっと特別な日」だったり、ママ会や女子会で女性客の利用が多い。
街の一部としてすっかりと溶け込んでいる。
「おはようございます、相田さん」
ハスキーで芯のある若い女性の声が耳に入り、振り向いた。
そこには黒のパンツに膝の上まで届く黒のロングパーカーを纏った女の子が佇んでいた。
艶やかな黒髪のショートカット、切れ長で少し目尻の垂れた大きな瞳、すっと通った鼻筋、薄く小さな唇。
美しい人形のような顔立ちを薄いメイクで整えた彼女は少し高い身長と服装もあってボーイッシュに見える。
表情の変化を見せることもあまりなく、物静かで落ち着いた雰囲気を醸し出していて、ともて成人式前の大学生には見えない。
「あ、おはよう。結城さん」
真っ黒なてるてる坊主みたいな無表情の美人。
ぱっと見ただけでは少し近寄りづらい印象を受ける。
「今日も冷えますね」
しかし、彼女と働いていると彼女は人嫌いで攻撃的というわけではないことがわかってきた。
「うん、すごく寒い。すごく暖かそう」
むしろ、よくも悪くも人間に興味がないという印象の方が強くなる。
「そうですね。これすごく暖かいです」
例えるならただ当たり前のようにいる空気のような存在なのだ。
どにでも馴染めて、頼りになる。
しかし、その実態は隠しているわけでもないのに掴めない。
特に今日はいつもなら綺麗に整えられた髪が北風のせいかわずかに乱れてしまっていてそんな印象を強くさせる。
不思議な魅力のある子だ。
「すごく貸しましょうか?」
そう言って胸元のファスナーに手をかけようとする彼女を慌てて制止する。
「すごく嬉しいけど、これくらいならすごく大丈夫」
「そうですか、すごくわかりました」
声も表情もほとんど変化のないまま、彼女はそっと手を下ろす。
そして、思い出したように続けた。
「あ、そうえいば、相田さんって老健に勤めてたんですよね?」
「あーうん。大学でなんか課題が出たの?」
転職の繋ぎでこの店でアルバイトをはじめて2ヶ月。
色々あって5年で辞めた高齢者施設の話を思い出すにはまだ少し体力が必要だった。
「いえ、サークルのボランティアで老健の訪問をするってなったんですが、案が浮かばなくって。実際に働いてた人の意見があればわかりやすいなと」
サークルのボランティアと聞いて懐かしい学生時代が脳裏をよぎる。
その記憶の一部を構成するかつて所属していたサークルの現在の活動を聞くとOBとしては感慨深いものがある。
「なるほど、いつ?」
「2月21日です」
「2月21日かー」
「バレンタインも終わっちゃって、ひな祭りにはちょっと早くって……」
今在籍しているバイトの中でも古株な方の彼女にはまだお世話になることが多い。
だからこそ、真面目な相談には真剣に答えてあげたい。
「うーん」
大学1年生が出来る範囲を想定して頭のなかで思考を巡らせる。
「俺ならなにか記念日とかをヒントにするかな」
「記念日ですか?」
「……たしか、2月21日は綾部晴明の誕生日だね」
「それ絶対諸説ありそうなやつじゃないですか?」
突拍子のない話に胡散臭さを覚えたのか、疑いの目を向けてくる。
「あと、芸能人なら菅将司と要駿」
「え、マジですか」
「うん、マジ。ちなみに翌日の2月22日は加藤EIKOと新海友則」
「え、面白い」
普段は大人しいが、こういうときは若い子らしい反応を見せる。
元々大きな瞳を広げ、こちらの方をじっと見つめる。
そのようすは顔立ちもあって、どこか父親に面白い話をせがむ純粋な少年のようにも見える。
「なんか、めっちゃ詳しくないですか?」
無自覚にぐっと近づく彼女からは洗剤のいい香りがした。
「無駄知識が多いんだよ」
こういう相手につい調子にのってしまうのが悪い癖だと自分でも思ってる。
「じゃあ、その近くの日でレクのアイディアに使えそうな人とかいますか?」
「んー、前日の20日だけど、東村へん、ジャンボジェット檜木、長柴秀雄かな」
昔話を聞いたり話を理解するのに昭和の有名人は大いに役に立つ。
そして、高齢者と接し続ければ昭和の文化史は勝手に身に付いていく。
「東村へんは知ってます。動物園ですよね」
何気ない一言に不意をつかれ、心の中のどこかでガクっと力が抜ける。
「うっ……!」
「え?」
バ●殿でもないところが火力が高い。
「……高齢者には『全員集合』だね。でも、レクのアイディアなら長柴さんの話題の方が野球に広げられてやりやすいかも」
「どんな人なんですか?」
「伝説的な元野球選手で監督さんだけど、……野球知らない?」
「わかんないです」
「うぅっ……!」
「え? なんですか?」
確実に言えることは、彼女はなにも悪くない。
自分だって昭和の野球選手や監督の有名どころを知らなかった。
知る経験がない状態で知らないことは何一つ悪いことではない。
だから、彼女が知らないことをバカにしたり責めるつもりは一切ない。
ただ、それとは別にジェネレーションギャップでダメージを受ける楽しさも否めない。
かつて目の前で先輩たちが火遊びを楽しむ子供のようにはしゃいでいた気持ちがわかった。
「いや、気難しくてもスポーツの話がきっかけで心開いてくれる人とかいるから、触りだけ覚えておくと便利だよ」
「なるほどー」
実際、覚えておけば役に立つことも多い。
信頼関係を築くことが仕事の一歩目で、知ろうとすることは手段のひとつなのだ。
「バイト終わったら一緒に調べようか?」
「いいんですか?」
そう聞き返した彼女の声にはさっき挨拶したときよりも、ずいぶんと暖かみを帯びていた。
本人は無自覚なのだろう。だが、だからこそ可愛らしく感じる。
そして、そんな様子を間近でみせられてしまうからこそ、
「……ん~、どうでしょう~」
正気でいられなくなる。
「?」
とっさに出てきたうろ覚えの拙いモノマネに結城はぽかんとした。
そうだよね。
知らないし、伝わらないよね。
わかる。
「……さあ、仕事仕事」
「え? え?」
掃除用具をもって玄関の扉を開く。
カランカランと頭上のベルが響く。
「光希さーん、これ伝わります~?」
「え~、なに~?」
「ちょっと、どういうことですか?」
さて、今日もバイトの時間だ。
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