第8話 天の邪鬼
お互いダウンを取っている。決めては2,3ラウンドのポイント勝負。
「ジャッジ木下115-113、前田!・・ジャッジ山本115-113、中村!・・・」
最後のジャッジで勝負が決まる。
「・・ジャッジ大下114-114!以上、三者三様1-1の判定でドロー!」
引き分け。プロである限り結果は大事。でも、今の弘にはどうでも良かった。
死闘。
前田という1人の男と命を懸けて闘った。その事実だけで十分。
観衆から割れんばかりの拍手。いつまでも鳴り止まぬ拍手。2人の闘いが素晴らしかったことを物語っていた。
挨拶の為、相手コーナーに行く。
「弘君、君は良いボクサーだ!卑怯だなんて言ってすまなかった!辞めるんじゃないぞ!」
藤本会長は満面の笑みで、弘の腰の辺りを叩きながら声を掛けてくれた。
弘はこの試合、負けてしまったら自殺を本気で考えていた。だから、生き残れた安堵から藤本会長の言葉に涙が出た。
「ありがとうございました!」
汗と血で濡れた顔に涙が伝う。
「でも・・娘と付き合うのはダメだからな!」
藤本会長は冗談とも本気ともとれる顔つきで言った。思わず苦笑いで返した。
自分のコーナーに戻る時、前田がすれ違いざま言った。
「中村さん!絶対・・絶対にまた闘いましょう!決着をつけましょう!」
弘もそのつもりだった。
「だから・・絶対に、絶対に辞めないで下さいよ!」
弘の5連敗中というのも、マスコミにおもしろおかしく取り上げられていた。果たして負けたら引退するのか?なんて記事が出ていたのを前田も知っていたのだろう。
「もちろん!また、やりましょう!」
場内の拍手はまだ続いていた。弘がいつもしているようにリング中央で四方に頭を下げて挨拶した時。一際大きな拍手と歓声があがった。
何年振りだろう・・こんな気持ちになったのは。
弘は誇らしい気持ちになっていた。リングから降り、花道を帰っていた弘。
「ナイスファイト!」
「辞めるなよ!」
「次、また応援するからな!」
弘に向けて観客たちが口々に言葉をかけてくれた。その度にチョコンと頭を下げて答えた。
控え室に戻りバンテージを取ってもらう。
「弘!今日のお前は見違えるようだったぞ!素晴らしかった!辞めんなよ!」
トレーナーも薄々、弘が辞める事に気づいていたのだろう。
後楽園ホールを後にする時。
美里の事が頭を過った。もしかしたら待っていてくれているかな?なんて思っていた弘。
しかし、美里はいなかった・・・
いつものように電車に乗った弘。
連敗中の帰り道。若干の情けなさを感じながら、無感情で車窓から見える景色をみていた。
でも、今は違う。
自分自身が誇らしく思える心地よさ。
また、美里の事が頭を過った。
この結果を美里さんはどう思っているのかな?
勝ったら付き合って下さい!
清水の舞台から飛び降りる勇気を振り絞って告白した自分。
そういえば、美里さんの答え聞いてなかったな・・・
お父さんに連れられていく時の美里は何か言いたげな表情をしていた。
でも、最後のメールは“さよなら”の4文字。
答えの出ない問い。美里に聞いてみないとわからない。
“弘さーーーーーーん!”
確かに聞こえた女神の声。
わからない・・・
駅に着き自宅までの道をオートマチックに帰る。
たしかここだったな・・
2人組の男たちに絡まれていた場所。
初めて出会った場所。
美里がいなくなってからの2ヶ月。帰り道、いつも美里を探していた。
この場所。カルボナーラをご馳走してくれたファミレス。そのファミレスで美里の姿を探す為、いつも遠回りして帰っていた。
少し感傷に浸って、歩みを進めようとしていた時。
「弘さん。」
美里さん?
あまりにも自分が聞きたいと思っていたから幻聴が聞こえたような気がした弘。
「弘さん!!」
今度ははっきりと聞こえた。空耳なんかじゃない美里の声。
声がした方を振り返った弘。そこには美里がいた。
「・・久し振り。」
美里は恥ずかしそうに言った。
「・・・ひ、久し振り。元気だった?」
2ヶ月振りの再会。
「お腹空いてる?」
「・・・は、はい。」
「じゃあ、よければご馳走させて下さい!」
あの時と同じセリフで美里は言った。
思い出のファミレス。
「じゃあカルボナーラでいい?」
「あ、覚えてたんですね?」
美里が自分の食べていたモノを覚えていてくれた事が嬉しかった。
そういえば・・あの時も、美里さんカルボナーラ注文してたっけな。
2回目に会った時。美里がカルボナーラを注文していた事を思い出した弘。
あのときはたまたまかと思っていたけれど、ずっと・・美里さんはボクの事を思っててくれたんだ・・・
「あ、すみません!カルボナーラ2つお願いします!」
元気よく店員さんに注文する美里。
「弘さん、痛そう・・・」
そう言ってテーブル越しに身を乗り出して弘の眉尻の傷を触った美里。あの時みたいに反射的にスウェーバックはしなかった。
「・・い、痛っ!」
弘は大袈裟に痛がる素振りをした。実際、痛かった。
「あ、ゴメン!あんなに平気な顔して打ち合っているから痛くないのかと思って・・・」
「これ、ボクサーあるあるなんですけど、試合中はアドレナリン出てるから全然痛くないけど、試合終わったらめっちゃ痛いんですよね。」
2人、2ヶ月会っていないのがウソのように恋人同士のように笑い合った。
「美里さん・・」
「何?」
弘は意を決して言った。
「一郎さん、めっちゃ良い人でした。試合終わって、今までの失礼な態度を僕に謝ってくれたんです。美里さんが思っているほど悪い人じゃないと思います。」
「・・・だから?」
「だから・・・」
おい!俺!
「お父さんもそれを望んでいると思うんですよ。」
やめろって!違うだろ!
「僕、勝てなかったし・・・」
お前、嬉しかったんだろ?試合中、美里の声聞いて!
「約束果たせなかったし・・・」
やめろって!なぁ、考え直せって!
「だから・・美里さん、一郎さんと付き合った方がいいと思うんです。お父さんも喜ぶだろうし・・」
美里は途中から俯いて無言になった。
流れる沈黙。
今、通り過ぎているのは天使じゃない。
その事だけはわかった。自分自身でも何言ってんだろ?って思った。
「娘と付き合うのはダメだからな!」
藤本会長の言葉が過り、美里の事を自分なりに考えた末の結果だった。
美里の肩が揺れていた。
「フフフ・・・」
美里は笑っていた。
え?笑ってる?
不思議に思った弘。
「バっっっカみたい!あなたって本当バっっっカみたい!」
そう言って顔を上げた美里の顔は笑っていなかった。
その顔はキッと睨みつけるように怒りが滲み、見たことないくらい怒った顔になっていた。目には表面張力ギリギリになっているほどの涙を溜めて。
「なんであなたに私の好きになる感情を決められなきゃいけないわけ?」
「・・あ、いや、そういう・・・」
「最っっっ低!大っっっ嫌い!!」
そう言った瞬間。美里の右目から表面張力にたえきれなかった涙が一筋零れた。
弘はその涙の軌道を目で追っていた。その涙ですら美しいと思ってしまった。
「大っっっっっ嫌い!!」
あんなに可愛いと思っていた“っ”が、今は憎悪に満ちた感情しか読み取れなかった。
「ち、違うんだ・・・」
そう言って勢いよく立ち上がり、美里は店を出て行ってしまった。
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