父の愛情の形
2月に入って急ぎ足で何事かとの別れのシーズンが来ているようだ。
わたしの住んでいる所でも、近所で引っ越し会社のトラックを頻繁に見かけるようになった。
単純に別れと言っても様々ある。
学校の卒業。会社での転勤などはその代表一番手と言った所だろうと思う。
学校の卒業は3年間とか4年間。人によって違う年月で卒業を迎えると言うこともあるだろう。そして学校の卒業はその後の新しい世界への編入というものが待っている。
どんな世代でも学校の卒業式と聞くとグッと胸に迫るものを感じる人は多いと思う。親しい友人や、担任の教師との別れ。何年間、見慣れた校舎や教室の窓から見える風景との別れ。皆で大騒ぎしたことや馬鹿げたイタズラなどが、現在を離れて過去へ遠ざかっていく。
だが学校の卒業は、もの悲しさの反面、新しい世界への期待に胸が躍る出来事でもあるはずだ。
わたしの高校時代は、もう相当に古い遙か昔のことだ。
同級生達の中には卒業後も大学や専門学校でさらに勉強をする者と会社に就職する者とがいて、卒業間近になると、高校生活との別れなどより自身の進路への想像をあれこれ夢のように口にする者がいた。
中でも就職する男子は、学校の制服から大人社会の制服ともいうべきスーツを買った話をする者もいた。
スーツは、上下一対だしシャツにネクタイもいる。最近はあまり使わないかもしれないがネクタイピンも必要だ。靴下だって、ダサいと思っても黒い地味な色のを買わなければいけないし、靴も必要だ。そう。ベルトも地味な革ベルトがいるだろう。
それなりの家庭のご子息ならば幼少のみぎりから大人顔負けのビシッとしたブレザーとかを一式揃えてもらっているが、わたしのようにそんな上品な服装とは無縁に育った者には就職を機に買うスーツが初めての経験だった。
こういうときのスーツは記念品みたいなものだから親も多少気張っていいものを買ってくれる。
そんなわけでわたしは父親と一緒にデパートのスーツ売り場へおもむき、買ってもらうことになった。
このときのことをわたしは今でもよく覚えている。父が教えてくれた「少年時代との決別」の話だ。
そのスーツは売り場の店員にあれこれと勧められて、そうしているうちに店員の口にうまく乗せられて、だんだんと高い品を見せられて、見せられれば高いものの方が良い生地だしデザインもいいのだ。(デザインのどこがいいのかは、さっぱりわからないのだが)わたしもそちらに気を引かれてしまう。おとぎ話の裸の王様のようなものだ、あるいは豚もおだてりゃ木に登るというべきか、いい気になってしまうわけだ。
店員が次々と出してみせるスーツの値段が段々と上がっていくのを見て、おそらく父親は気が気でなかったのだろう。
わたしは値段のことなど気にしていなかったので、店員に言われるままに、ウンウンこれがイイなんて軽く目を見張って有頂天になっていた横で父親は、オイオイそれは、と小声でゴニョゴニョ食い止めようとしていたが、そこは「昔の男」である父親だから口下手でハッキリと不満を毅然として示せず、わたしと店員の意図しない悪巧み!で、ハイお買い上げ~、となってしまったのである。
父親には悪いことをしたが、わたしは勇躍、よいスーツを着て新しい世界への一歩を踏み出す形になったのだ。
しかし、わたしの仕事は、思えばスーツなんて入社式から新入社員研修の半月に満たない間しか着ない仕事であった。だから、本格的に仕事をし始めたときにはもうスーツとはおさらばで、それっきり忘れてしまった。
わたしはそれから会社員としての厳しい日々をやっと最初の一ヶ月ほど全うした。
そして最初のまともな一ヶ月分の給料を手にしたときに、親に何か贈り物でもしなければとわたしは人並みの親子愛を胸に秘めていた。
そんなわたしの所へ、
「オイ、給料もらったか?」
父親が来てそう言うと四つに折りたたんだ紙片を広げて指し示した。
2ヶ月ほど前に父親の肝を大いに冷やした、わたしのスーツ一式のウン万円の領収証だった。まさかここで取り立てに会うとは思わなかった。それでわたしの初任給の大半は父親への支払いでほとんど消し飛んでしまった。
父はわたしに、甘い話には忘れた頃に苦い後味が来るという世間の厳しさを教えてくれたのである。
借りた金は返せ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます