第七章 祝炎の英雄 後編(雷神編)
不穏な新年 一
夜の帷が皇都を覆う。
新年を迎え、年を跨ぐ鐘の音も終わりを告げた頃。皇都の夜はいつにも増して賑やかだった。
大通りは常に行燈が灯され、所々焚かれた篝火に片手に酒を携えた人が集まって暖をとっている。野外設置された舞台演目から聞こえる宴響楽に道端で人形劇や大道芸等とあって催しも事欠かない。
いつもと違った夜店も大通りに所狭しと並んでは、酒や軽食だけでなく、子供向けの飴や菓子もある。
この日ばかりは子供も日付が変わっても、眠たい目を擦って大人に混じりながら夜を味わおうと必死だ。新年だからこその光景は子供達にとっては別世界のようで、親御に手を引かれながらも目を輝かせていた。
昨日降った雪が残ったままの屋根とは違い、足元は踏み潰された雪で
そんな賑やかしい雰囲気に包まれる新年当日。
しかし、賑わいも頃合いを過ぎれば次第に終わりを迎える。
ちらりほらりと人が減っていく。賑やかしい雰囲気から一転、酔いどればかりが残され、遅くまで酒楼で飲んでいた者も篝火や行燈がが消え寒々しい道の中、足繁く帰路へとついていた。
とある男もまた、酒楼から出たと同時に寒さから身体を震わせていた。提灯片手に酒が回って覚束ない足をえっちらほっちらと動かしては何とか家へと向かおうとしている。
普段、大工として働く男はまだ結婚もしていないとあって、この日ばかりは金子を奮発した。意中の酌婦がいるとあって、通い詰めた店で大枚はたいて飲めるだけ飲んだのだ。
しかし、酒は大いに回って大枚はたいた結果だが、結局女を買えずに帰路へと着いた。なんと女を買う為の金を景気付けに酒にまわし過ぎたのだ。
お陰で、女は買えずじまいで店を後にする羽目になってしまったと言うわけだ。が、まあ女もそれなりにやり手とあって男の心中を察して分いたのか、「また、今度ね」などと耳元で甘く囁いて別れを告げていた。女とは恐ろしいものだ、十二分に男心を擽られた男は再び金を積んで女に会おうとするだろう。
女の目論見通りか、男の足取りは目的を達成できなかったというのに、少しばかり浮き足立ったままだった。
泥濘の道を男は更なる暗闇に向かって進んだ。既に大通りを外れ、
祭りが過ぎ去ったそこは皆、帰宅早々に寝入ったのかしんと静まり返っていた。提灯だけでは心許ない道は賑やかしい雰囲気の後とあって、いつもより重苦しい。
仄暗い空気と寒さで男の酔いは覚め、いつの間にかいつもの帰路に身震いすら覚えていた。
男は暗闇に飲まれまいと足早になった。泥濘む道は、バチャバチャと煩く泥が跳ねる。何度か、ずるりと足を取られそうになるも何とか堪えた。
――あの角を曲がればもう家が見える
男は安心からか最後の最後で足が
まだ酔いが残っていたのか、と家がすぐそこという安堵から気の抜けた考えが浮かんだ。
「あーあ、湯、沸かさねえとなあ……」
泥まみれの身体をずるりと起こそうと、男が手を突いた時だっただろうか。
ゔゔぅ――
男の背後。何処からともなく、獣の声が聞こえた。
そう、男の直ぐそば。男には、そんな気配など微塵も感じられないのにも関わらず、唸り声だけがじわじわと近付いて来ていた。
獣らしき足音が無いのに、その唸り声はどんどん増えていく。声だけが辺りを囲んで、男は動けなかった。
僅かばかりに持ち上げた腕が身体を支える真横で、獣の息が男の耳元で聞こえた瞬間。その獣そのものの生温かい息遣いが、男に現実を知らしめた。
◆◇◆
日が高々と眩しく路上を照らすも、朝方の寒さで凍りついた地面が再び溶け足下は未だ泥濘むままだった。
そこで、皇都で警備を担当している数名の兵士とその上官の校尉が一名、更には不可思議な事件とあって呼び出された将軍――
新年早々……と最初こそ兵士達は気が緩んだ状態で初めて間近で見る将軍閣下に隠れてこっそりと欠伸までかく始末だったのだが、一目呼び出された原因たる光景を目の当たりにした瞬間、緩み切った気概は引き締まるどころか動揺を通り越して、その場で嘔吐する者もあった。
「こりゃあ……」
そんな状況で姜道托は現場でかがみ込み、
一際大柄なその体躯に平民達は誰しもが、皇軍の将だろうかとソワソワしながら家の戸の隙間からこっそりと覗き見る。将軍ともなれば、子供に容貌の眼差しを向けられる事も少なくないのだが、今日ばかりは子供に見せられる状況ではなかった。大人達も騒ぎの顛末が気掛かりでこそこそと隙間から状況を覗く。場は昼間というのに嫌にしんと静まり返って嫌な雰囲気だった。
皇都の警備に当たる者が此処最近噂になっている不審死に連なると予測して、最初に呼び出された皇都警備直下の担当である
新年の朝一番に送られた書簡は平民街の事件であるにも関わらず、「不審死に繋がる凄惨な事象の可能性がある」の一言を添えた事が功を奏したと言えるだろう。
姜道托将軍の目の前には、肉塊と化した亡骸が一つ。最早亡骸と言うよりは、かつて人だった残骸と言った方が正しいかもしれない。家屋の壁は大きな血痕とへばりついた肉片に塗れ、それも残骸の一部とすら言える。
そして泥濘んだ地面の上、同様に夥しい血痕と同じく肉片やら骨片……多分指先、多分頭髪、多分肩と、人一体分か如何かも判別が付かない肉塊がそこかしら散らかっているのだ。残された衣からして平民男性。恐らく一人、その程度の情報が残されているだけだった。
只の殺人であったなら、道托が呼び出される事も無かったであろう。
問題は、死因だった。
「恐らく……その、獣……かと」
最初に呼び出された
世迷いごとと一蹴される覚悟での発言だったのだろうが、大きく残された肉片の傷口に、獣らしき爪痕や噛み傷があるのだ。それも、大型の。
道托は身を屈めたまま、血と泥に塗れた遺骸の一つ一つに目をやった。その目で見なければ道托も「皇都の中心部で野犬ならともかく……」とでも口走っていたかもしれない。
大きく残された肉片にある傷は如何見ても獣なのだ。
野犬一匹で運悪く死ぬ事も無くはない。が、男と思しき人物の残り滓を見る限り、到底野犬に襲われたと断定する事が出来なかった。
何故ならば――
――頭蓋が無い。丸ごと飲み込まれた、又は噛み砕かれた……
そう、男の身元を多少でも証明できる頭部すら、消え失せていた。獣が持ち去ったと思われる形跡も無いだけに、大型の獣と考えるしか出来なかったのだ。
道托は、その獣に覚えがあった。
――妖魔?
人の頭を噛み砕く程に大きな獣というと、心当たりが限られる。道托の思考の中、真っ先に浮かんだのは、陰から生まれる獣だったのだが、その考えを口にするのは憚られた。
あれは、生気溢れる山々でしか生まれないのだ。この様な、人里……しかも都の真ん中で生まれるなどあり得ないとされていたからだ。
しかし、ふと脳裏に古い書類の記憶が蘇る。当時、その書類を見て、道托は凄惨たる生々しい光景が浮かんだ事を思い出す。
――いや待てよ。確か、雲省でその様な事案が発生した事があった……か?
自身の経験上あり得ない事ではあった。が、そういった書簡を一度だけ目にしたことがあると記憶からポン、と飛び出してきたのだ。
――そうだ、確か……
記憶を揺すり起こし、道托は一度立ち上がって無惨な亡骸の全体を見る。
「姜将軍、」
背後より道托の判断を待つ男が声を掛けた。見当違いだ、とお叱りでも受けるのを待っているかの様に背後で従卒の隣で佇む校尉の表情は不安に満ちている。
「あぁ、獣だな。しかもかなりの大きさと見る。皇軍で皇都全体の警備を編成が必要だ」
「え、いや……そこまで大事なので?」
校尉は皇都に紛れ込んだ人喰いの獣の討伐を任されると考えていた。冗談でも言っているのか、と道托の顔を見るも皇孫殿下の顔は真剣そのもので、校尉に反論の余地など無かった。
「上への報告はこちらで進めるが、親族の対応、後始末は任せる。良いな」
「承知致しました」
たかが獣の報告を将軍閣下が請け負うものなのかと校尉は頭を悩ませる。
「あの……姜将軍。この件は一連の不審死と関係があるのでしょうか」
男は、それだけを頼りに道托へと書簡を送った。これだけは聞いておかなければ、胸につかえが残ると言うものだ。
「不審死と関連があるかは判らん……が、看過出来ぬ状況であるとだけ言っておく。しかし民への口外は以ての外だ。下手に混乱を煽らずあくまでも、皇都に紛れ込んだ獣の仕業として対処せよ」
不審は見られるが、現状は判断しかねる。穏便に事を済ませよと、僅かながらに気遣いのある言葉だった。校尉が迷わず情報を送ったとあっての事か、それとも一校尉ですら獣による事件を不審死に繋げて考える程に不安を抱えていると言う現状にか、どちらとも判断つかない姜将軍の表情を一瞥しては男はもう一度「承知致しました」と告げ、深々と頭を下げた。
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