二十六
それまで、雲景は命の危機を何度か感じた事はある。
あったとしても、何とか乗り越えてこれたのは、やはり、主人の腕があったからと言う事が大きいだろう。
雲景も、それなりに腕を上げたのもあり、大抵の事は乗り越える事が出来たのだ。
だが、人為的な命の危機と言うのは、存外どうにもならないものなのだと、雲景は自身に剣を向ける者をまじまじと眺めた。白を基調とした仮面には、金色で隈取が描かれて、その表情には怒りが宿されている。
仮面劇の面に意味を見出す意味は特に無いのだが、雲景はそんな余計な事を考える程に平然としていた。
悟りでも開いたとでも言うかのように、胡座をかいて堂々と座る。手は拘束されたままではあったのだが、剣が喉元に軽く突き刺さる感覚がしても、雲景はピクリとも動かない。
経験がものを言う。
剣を向けられる事も、些細な痛みも、これと言って、雲景には大した事は無い。そんな事で動じていては、業魔など相手にできないのだ。
ただ、今も身体は鉛の様に重く、恐らく抵抗もできないまま死を迎える覚悟だけは、雲景にもあった。
「雲景氏!!」
地下牢で響く軒轅の声は、焦燥が募るばかりだ。恐らく、剣を持ったこの目の人物が、軒轅の牢屋の前を通り過ぎたからだ。
仮面の所為で顔は分からないが、体付きが女を思わせる。ほっそりとした腕が剣を構えて、雲景の首から生温かい何かが溢れているが、大した痛みでは無かった。が、軒轅がそれを知る術は無い。
こんな所で剣を使うとなれば、使い道は限られる。特に今は拘束された身。どう使うかを想像すれば、嫌な方へと思考は傾くというものだろう。
だが、その焦った軒轅の存在が、雲景には丁度良かった。
焦っている者がいると、尚落ち着ける。自分が冷静にならなければ、と思えるからだ。
いっその事目の前で騒ぎ立ててくれたなら、何て考えてもいたぐらいに。
それだけ、雲景は冷静だった。
ただ、後悔する事があれば、その死の起因が主人では無い事かもしれない。
出来る事なら、その命を主人の為に使いたかった。
無様に捕まり、人の手によって、死ぬ。
予測していなかった死を目の前にして、雲景は妻を思い出さなかった。
剣を掲げる女は、それを首筋に当てたまま動かない。
「どうした、首の落とし方を知らないのか?」
雲景は、淡々と口にしたが、煽っているとしか取れないだろう。
殺したいなら殺せば良い。その覚悟があり、その意味を理解しているならな。と、雲景は続ける。
「龍は死ねば、亡骸は残らない。お前が殺したとしても、私はこの世から完全に消え去るだけだ」
焚き付ける言葉ばかりで、遠くで軒轅の怒りにも似た声が響き続けた。が、その激しく響く怒声に効果があったか、女の手が震え始めていた。
『殺せ』と命じられてきたのか、どうにも覚悟が足りなかったのは、女の方だった様子で、その震えで突きつけていた剣が、ガシャン――と大きく音を立てて石の床の上に転がった。
女は自身の手を見つめた、かと思えば、ふらついて数歩後退りして座り込んでしまった。その身を縮こませ、震える全身を抱え込む。
その姿を見ても尚、雲景はただ女をじっと観察するだけだった。
果たして、女の目的は何か。
何を望んで、雲景と軒轅を此処まで連れてきて、その労力に見合わない殺しと言う方法を選んだのか。
それともこの女は実行犯ではないのか。今の姿が、演技か。
目まぐるしく駆け巡る思考に意識を傾けていたが、牢屋で叫ぶ男の声が思考を遮った。
「雲景氏!!無事か!!」
あぁ、そういえば、そう言う状況だったと思い出す。
「一応な」と返すと、「どう言う事だ!」と更に騒ぎ立てた。
まあ、無理も無い。逆の立場であったなら、雲景も軒轅と同じ心情であっただろう。
雲景は、今一度蹲ったままの女を見た。まずは、この状況の打開が先だが、その打開策を握っているのは、どう考えてもこの女だ。
さて、どうしたものか。
女の一挙一動を観察していると、女の震えが止まった。そのまま何事も無く立ち上がったが、剣は地に落ちたままだった。
雲景の背後に周り、何をするのかと思えば、金属特有の音が石床にぶつかると音と共に雲景は手首が軽くなるのを感じた。
身軽になり、その手にはそれまで拘束されていた所為か違和感だけが残る。その感覚が煩わしく、雲景は手首を摩りながらも、その目は女から外れる事はなかった。
あまりにも突然で、頭に疑問符を浮かべそうになる。
「何が目的だ」
雲景はとても女に問わずにいられなかったが女は、雲景の存在を忘れたとでも言うかの如く、ふらふらと廊を出た。そして、今度は軒轅の方へと入って行くではないか。
何かするやも、と雲景も後を追うが、女はやはり、軒轅の手枷を外すに留まっていた。
勿論、手枷を外された軒轅も意味が分からないと、首を傾げている。
助けてくれた、と安易に考える事が出来たなら、どれだけ楽だったか。
雲景の首筋には、確りと剣の
殺意があった証拠にはならないが、女が何かしようとした事だけが、微かな血の匂いとして地下牢の冷たい空気の中に漂っていた。
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