番外編 暗躍する策士 壱
燼にとって、二ヶ月振りの皇都は蒸し暑いの一言だった。この時期に避暑地とも言える、雲省を離れた事は僅かばかりに惜しい事をしたと思ってしまう程に。
雲省は夏が遅い。乾いた空気に穏やかな風が心地良く、夏は北部に限るとは、話には聞いた事があったが、皇都に戻った今、じめじめとした暑さで、それを実感していた。しかも、二ヶ月もの間、その空気を肌で感じていたものだから、余計に身に染みると言う物だろう。
燼は墨省の生まれだ。しかも、藍省に寄り近い為、山中なら兎も角、平野部の暑さは肌に纏わりつく湿気と熱に溶けそうな程。それでも、藍省から来た者から言えば、まだマシなのだそうだ。そんな環境に慣れた燼も皇都で数年暮らして然程気にも留めていなかった暑さだったが、快適な環境を知った今、今いる此処が、最悪の環境にも思えて仕方が無い。
そんな暑さの中、本当なら、久し振りの我が家でだらりと過ごす予定だったが、思わぬ来客により、それも中止となった。
「二ヶ月も休みなんて、羨ましい限りだ」
そう言って、にやつく顔を見せたのは、風鸚史だった。珍しく暇になったと、彩華と燼の家を訪ねてきたのだが、相変わらず、だらりと長椅子に寝転んでは自由気ままだ。
だからといって、燼は気にも止めない。目の前で、風家の人間が畏まった形で座られてる方が、余程居心地が悪い。
「休みと言っても、神学の勉強や、省軍に加わって訓練とか、殆ど休んではいませんよ?」
「……誰だよ、そんな意地の悪い休養にしたのは」
「さて、誰でしょうか」
そう言って、燼は姿勢を崩した。身分的に言えば、鸚史に咎められても仕方がないが、目の前の人物は絶対にそんな事をしないと、燼はよく知っている。主人の友人である、その男は、姜家の次にもの言う家柄であるにも関わらず、その風格は見せない。自分は次男だから、気儘に生きると、そればかりだ。実際気儘に生きているかと言えば、違うだろうが。
「あの兄弟は、本当に真面目だな」
燼以上に、嫌そうな顔をして見せる。鸚史も、燼程では無いが勉学に励む方では無かったという事だろうか。
「そう言えば、合流されている筈では?」
「あぁ、俺はちょっと、家で色々あってな」
濁した言い方だ。そう言う時は、関わるべきでは無い。特に風家など、格がある家など、もっての外だ。
「片は付いたがな。お陰で暇だ」
「それで、わざわざこんな貴族街の端っこまで来た訳ですか。薙琳も連れずに」
「あいつは、祝融に貸した。いざこざに巻き込まれるよりは良いかと思ってな。あと何日かしたら、帰って来るだろ」
だから、この家に来たのか、それとも本当は今だ、いざこざとやらは続いているのか。
飄々とした態度ではあるが、決して内面は見せない様は、格のある貴族と言った所なのだろう。いつも楽し気で、道楽者の様に振る舞う。
そして、その道楽者は何かを思いついた様に、口を開いた。
「暫くは暇だよな?」
「まあ、祝融様達が戻られるまでは」
「飲みにでも行くか」
燼にとって、これ以上無い誘いだった。鸚史は安酒を好む。質より量で、市井の店を選ぶ為、燼も気楽に飲めるのだ。
「是非、怪我の所為で禁酒を言い渡されていたので、暫く飲んで無いんです」
「そりゃ良い。快気祝いだ、奢ってやる」
――
――
――
賑やかな皇都。雲省は山間部で、少々不便な面も目立ち、比べるとやはり皇都は華やかな賑わいを見せていた。行燈の灯りが眩しく街を照らしては、人を活気立てている。酔っ払いや客引きを躱しながら、鸚史の馴染みの店に向かった。
だが、燼は思わず店の前でたじろいだ。酒専門の酒楼である事は確かだったが、酌婦のいる店だった。店の前には、客引きの為の酌婦と思しき女が数人待ち構えている。
「……そういや、お前苦手だったな」
「いや、絶対分かってやってますよね。揶揄ってますよね」
「まあ、取り敢えず入るぞ。金さえ払わなきゃ女は付かんから安心しろ」
そう言って、鸚史は燼の背を無理矢理引押す。
揶揄っているのは確かな様で、慌てる燼を他所に余裕な顔で笑うだけ。流石に抵抗もできず、燼は大人しく店に入るしかなかった。
大人しく席に着くも、簡易的な個室になっているが声だけは良く通る……と言うよりは、燼は耳がいい為、他で何が行われているかなど、丸聞こえだ。気分が滅入ると、酒に集中するしか無い。
「お前、女嫌いも程々にしとかないと、男色と間違われるぞ」
「別に嫌いじゃ無いですよ。普通に酒が飲みたいだけですよ」
「じゃあ、どんな女が好みなんだよ」
鸚史の何気ない問いかけに、燼は首を傾げた。
「考えた事も無いです……?」
「おい、大丈夫か」
即答したかと思えば、その答えには疑問符が付いている。二十歳も過ぎた男の回答だっただけに、鸚史も本気で心配してしまった。
「……あ、でも出来れば勇ましい女が良いかもしれないです」
「そりゃ、酌婦を見たからそう思ったのか、普段害の無い女が武人だからなのか、どっちだよ」
これには、燼は頭を悩ませた。答えが出ないのだ。ただ、静瑛の揶揄に付き合っていたのもあって、
「まあ、どっちでも良いけどよ。どうせ女作る暇も無いしな」
「ですが、鸚史様は家柄的には結婚の話もあるのでは?」
「……さてな」
鸚史から、僅かなため息が漏れた。いざこざとやらは、矢張り続いているのだろうかと、燼はうっかり勘ぐりそうになってしまった。
平民の燼にとっては、遠い世界の話でもある。ただ、郭家にいた頃もそう言った話はそれとなく聞いていて、大体が長子が継ぐものぐらいの認識はあった。何気ない会話で、彩華に興味は無いのかと聞いたことはあったが、三子の上にやる気も無い自分には到底回っては来ないのだと、笑いながら言っていた。
「そういう、つまらん話は良いんだ。それよりも、雲省は大変だったらしいな。大怪我だったんだろ?」
明らかに話を逸らした。燼も、風家などあまり関わりたくもないため、それ以上聴く気は無かった。
「えぇ、だから二ヶ月もの間、雲省に居たんですけどね」
嫌味では無い事はわかっていたが、
実のところ、燼は二週間、殆ど寝台から動けなかった。痛みで、歩くのがやっとだったのだ。しかも、まともに歩けるようになってからは、神学の勉強を捩じ込まれ、一月も経つと、省軍に混じって修練。空いた時間も、出来る限り体を動かしたりと、暇な時間など無かった。
「根に持ってたか……
鸚史の口調は意味深にも聞こえた。あくまで、燼は祝融の従者である。時には、静瑛に付いたり、鸚史を手伝ったりもするが、それだけは変わらない。
だからこそ、鸚史が燼に対して追求する事は一度も無かった。祝融が何もしないと決めたのなら、それに従うだけだと心に決めていたのもある。
「
鸚史は杯に目を遣りつつも、その表情は真剣そのもので、道楽者の姿など、そこには無かった。
「神子と話して、お前は自分をどう見た?」
「俺は……俺です、神子様と話しても何も変わってません。その代わり解決もしていませんが。ですが、決意は出来たので、心中穏やかでいられます」
鸚史は一言、「そうか」と呟くと、覗き込んでいた杯の中身を飲み干す。そして、再び酒を注ぐも、何かを考え込んでいるのか、杯を見つめたまま動かない。
「鸚史様?」
「……神子は何と?」
「詳しくは、まだ話すつもりはありません。言えるのは、俺には使命があるという事だけです」
使命。その言葉に、鸚史は腕を組み眉を顰めた。
「神子に、はっきり言われたのは、お前が初めてかもな」
「……祝融様は、天命が降っているのでは?」
「正確には、そう言われているだけだ」
これには、燼は疑問しか湧かなかった。異能を持っているというだけならば、使命を降されたとは言わない。だが、その力を持って生まれた事に意味を見出す者がいる。
「祝融が生まれた時、神子五人が同じ夢を見たと言われている」
―祝炎の力を持つ者が、神々より遣わされるであろう
「何の為にその力が必要かは、明示されていない」
祝融が生まれた際、神子達は皇宮へと赴き、
「俺が生まれたのは、その四年後。さらに、十年後に静瑛が生まれた。これだけ異能が立て続けに生まれたら、誰もが何かしらは考える」
「それが、天命だと?」
「……祝融が、初めて業魔を倒した時の話は聞いた事はあるか?」
燼は思い出そうとするも、祝融はあまり自分の話はしない。特に、皇宮での事を語る事は嫌がる。どんなに思い出そうとするも、それらしい記憶は思い当たらず、首を横に振るしか無かった。
「あいつは、まだ十四で実践経験も無い。付いて行ったのは、当時ただの侍従だった雲景だけ。それをあいつは、無傷で戻ってきた」
恐ろしい子供。それまで、祝炎の子、天命を受けし子と言われ続けた存在に向けられる目が、変わった瞬間でもあった。
祝炎の力を授かった本当の意味を考えるべきだと。
「今でこそ、皇軍だけでも業魔は倒せるが、当時は相当苦戦していたらしい。それを一人でやっちまった」
「まさか、それが原因で、祝融様は……」
「そのまさかだ。その頃から、陛下を含む姜一族は祝融を目の敵にするようになった。変わってないのは、
鸚史は一頻りを話したのか、酒を煽ると、嫌な気分だと呟いた。
「祝融と異母兄達の関係は悪く無かったんだ。それが、全部変わっちまった」
燼は、皇宮に詳しくはなくとも、姜一族の事だけは知っていた。横を通り過ぎる度に、憎悪にも似た気配を漂わせ、時には敵意を見せる者すらある。鸚史の話を聞いても、その理由は不明のままだ。道托にも、一度だけだが偶然会った事があった。祝融と同じぐらいの体格の持ち主で、まさしく皇軍の将と言う逞しさを持つ。厳しい目つきを見せ、ただただ、祝融を睨んでいた。
だが、神子の言葉が神言であるなら、やはり、明示が無くとも祝融が降されたのは天命なのであろう。姜一族は、様々な神々の神事を率先して行い、祀るという。それが、何故、天命に反した行動を取るかが、不可解でしか無かった。
悶々と、考える燼を他所に、鸚史は黙々と酒を煽り続けていた。不死は丈夫だが、飲み過ぎれば、只人と同じで酒も毒となる。
「飲み過ぎると、後が辛いですよ」
「それなら、他に思考を濁す手段を教えてくれ」
そう言って、更に酒を注文する始末。
「祝融の話は気が滅入る」
「ならば、何故?」
「今、風家も割れているからだ」
そう言って、また静かに酒を口に含んだ。燼も、鸚史の憂慮な顔付に、昼間口にした、
風家といえば、姜家と同じく神の血を継ぐとされ、姜家に次ぐ家柄だ。左丞相を代々担ってきた家でもあり、鸚史の父で四代目となる。そして、問題が起こったとすれば、下手をすれば祝融にも響くと言う事すら有り得る話でもあった。政治に無関心な燼でも、それぐらいは知っていたが、問題は、どれくらいの規模かが分からないと言う事だ。
流石に主人に関わる事ともなれば、燼も聞かないわけにはいかなかった。
「……何が起こったか聞いても?」
「兄貴が、どうにも姜家側に着いたらしい。それで、親父にはっきりと言ったのさ、家督を譲れとな」
何とも、豪胆な話だった。左丞相は、そこまで年寄りと言う程でもない。老いは見られるが、隠居するにはまだ早く、何より左丞相の知性は健在だ。
「何故急に……」
「……俺に跡目を継がせる話が出てきてるからさ。それで、唆されたか自己意思かは知らんが、無茶をし始めた」
鸚史は、卓に並んだ酒を飲み干すと、急に立ち上がった。
「出るぞ、そろそろ動き出す頃だ」
嫌な予感が、燼の脳裏を過った。先程までの表情から一転して、鸚史の顔は上機嫌なものへと変わっている。あまりの変貌ぶりに、騙された気がしてならなかった。
勘定を済ませ、目的も無くふらふらと歩く。未だ界隈は賑わいを見せたままで、夕刻よりも騒々しいとすら感じる。
そんな中、明らかに場違いな雰囲気を持つ者達がぽつりぽつりと現れては、人混みに紛れていた。
「鸚史様、付けられていますが」
「予定通りだ、このまま俺に続け」
背後に目をやる事なく、歓楽街を抜け人気の無い道を選んでは進んで行く。誘導にも思える行動に、燼は訝しむも追求する事は無い。
「燼、お前……只人と喧嘩した事あるか?」
なんて事を訊くのかと思ったが、背後の者達を考えると、そう言う状況になると推測されるのだろう。
快気祝いに酒を奢ってやると言った通り、払いは鸚史だった。だが、実際は快気祝いなどではなく、騒動に巻き込むから、その前払いだったのではと、つい勘繰ってしまう。
「只人は無いです」
「加減ぐらいは出来るよな」
「まぁ、多分」
出来るだろうか。喧嘩の経験は無い。燼にとっての戦闘経験の殆どが、命を賭けて力を振るう戦いが基本だ。鍛錬も、相手は不死や龍神族、獣人族と言った手練ればかり。
「只人と言っても、それなりに訓練は受けている。軍にも只人は混じっているからな」
「……じゃあ、小突いて死ぬ事は無いですね」
半分冗談で言って見せるも、鸚史の返しは淡々としたものだった。
「当たりどころが悪けりゃ、死ぬけどな」
「勘弁して下さいよ」
燼の顔は青ざめた。皇都で殺人罪など、御免被りたい。しかも、現状仕方がないとは言え、鸚史の後ろを付いて歩いているため、従者と思われている可能性もある。巻き込まれるのは必須だ。
祝融や彩華が戻るまでは自堕落に過ごす時間があると思っていた筈なのに、何故こんな事になってしまったのか。考えるまでも無く、前を行く男が原因な訳だが、燼を巻き込んだ理由だけは、今ひとつ思い付かなかった。
そうこうしている間に、鸚史は人通りの無い路地裏に入ったかと思うと、声も無く上を指差す。周りの建物の屋根はそこまで高くも無く、それなりに足場もあるとあって、登るのは簡単だ。二人は、背後にいた者達の視界から外れた瞬間を狙って、音も無く建物の屋根へと登っていく。気配を殺し、下の様子を探ると、突然二人が消えた事であたてふためく男達が六人居た。
「(一人も逃すな)」
燼にだけ聞こえる声で、鸚史が呟く。そして、合図と共に鸚史が飛び降り、燼は溜め息を吐きながらも、男達の背後に周り挟み込む形となった。慌てて、男達は腰に携えていた獲物を手にするも意味は無い。二人は剣を軽々と躱し拳や手刀で、次々と気絶させていく。六人が二人の相手になる筈も無く、男達は一瞬にして地に伏してしまった。
男達の手に握られた、研ぎ澄まされた鋭い剣を見ると、軍で支給されている物にも似ているが、よくある形の長剣だ。どこの所属かなど、分からないだろう。
「さてと、顔を拝見しますか」
鸚史は乱暴に髪を掴むと、一人の頭を持ち上げた。一人が持っていた提灯を手に、一人一人を確認していく。その様は、さながら暴漢だ。
「(どっちが、悪党か分からなくなってきたな)」
ふと、鸚史の手が止まった。立ち上がると、溜め息を吐いて、懐から白玉を取り出した。
「読み通り、兄上から刺客が送られました。全員捕まえましたので、対処だけ其方でお願いします。場所は――」
鸚史が言葉を終えると、志鳥が暗闇の中を飛び立っていった。
「もう少し付き合ってくれ。こいつらを引き渡したら、上等な酒楼にでも連れてってやる」
「俺、何も聞かない方が良いですか?」
巻き込まれたのもあって、多少なりとも状況を訊く権利はあるだろうと思っての発言だった。只の平民での従者が首を突っ込むべきではない。心のどこかで、そう思っても祝融の従者である事の立場を考えれば、風家の事象ならば燼は知っておく必要があるとも思えたのだ。
それを悟ってか、壁を背に座り込んだ鸚史は特に迷う事もなく、あっさりと話し出した。
「……兄貴が本気で俺を殺しに来た事だけは確かだな。五人は知らん顔だが、一人は武官だ。金に釣られたかな」
そして、またも鸚史は深く深く溜め息を吐いた。
「兄貴も上手くやりゃあ良いのにな。何を焦ってんだか」
その様子に怒りは無いどころか、呆れている。身内の犯行とわかっていながら、冷めた様子が、家族という形を知らない燼にすら異質に映っていた。
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