第七話 伝わらない





「蒼威様、お疲れ様です」


 玲様が柳瀬家を訪れてから五日ほど過ぎた頃、ひっきりなしにいろいろな人が蒼威様を訪ねてくるようになっていた。


 月が山の端に隠れてしまうまで、連日蒼威様は朝早くから夜遅くまで誰かと何かを話し合っている。今日ももう、夜更けだ。

 何となく気がかりで、お客様が帰るのを見送った蒼威様に、偶然を装って声をかけていた。


 蒼威様は、私が縁に立っているのを見て目を瞬く。



「……澄か。まだ起きていたのか」


「はい。あの、大丈夫ですか? こんな夜遅くまで働いていらっしゃったら、倒れてしまいそうで……、心配です」



 勝手に語尾が小さくなる。



「……心配してくれているとは思わなかった」


「し、心配しますよ! こんな無茶な働き方、お体を壊します」



 蒼威様は無言のまま私の傍に立ち、静かに夜空を見上げる。

 星々は私たちの上で震えて瞬いている。



「無茶して働いていたのは、お前だろう」



 その言葉に口を噤む。確かに私は今の蒼威様のように朝から晩まで模写しつづけていた。



「私はいいんですよ。働きすぎて倒れても別に誰も心配なんて……」



「俺が心配するからもうやめろ」



 その言葉に、胸がじわりと熱くなる。

 顔を上げると、闇の中で蒼威様が私を見下ろしているようだった。気恥ずかしくて、俯く。



「私のことを心配してくださる方がいるなんて……」



 そんな人、誰もいないと思っていた。



「俺がいる。……和冴だって、玲だって心配する。――だからもう未鍵家に戻るな」



 きっぱりと口にされて、ぐらりと足元が揺れる。



「未鍵家に戻らないなんて……」



 どこに行ったらいいかわからない。

 親類もいない、未鍵家にも帰らないとなったら、私――。


 この間おっしゃってくださったように、玲様を頼ろうかしら。でも、本当に押しかけてもいい?


 居場所のことを蒼威様から言われると、急激に不安が伸し掛かる。

 今まであまり考えないようにしてきた。

 柳瀬家を出て、未鍵家も放り出されたらと思ったらもう、自分の行く末が恐ろしい。



「ここにいろ」



 その言葉に、息を飲む。

 顔をあげると、蒼威様と目が合う。


 どうしてだろう。


 蒼威様はとても真剣な顔をされているような――……。



「ずっとここにいればいい。部屋は沢山ある。好きなように使えばいい」



 嬉しい。

 でも、現実的に、そうはいかないだろう。もし今後、蒼威様が奥方様をお迎えになったら?


 その時、私は――。


 もやっとした名をもたない感情が生まれて、顔を伏せる。


 ――馬鹿なことを考えた。


 色恋の意味で蒼威様が私に言ってくれたわけではない。

 私が模写師だから、仕事としてここにいろということだ。

 いえ、でも蒼威様は私に模写を強要しない。



 それなら一体、どうして――。



 考えても、答えは霞がかかったように出てこない。

 蒼威様がどう思ってそう言ってくれたのかは、私が考えてもわからない。それなら、自分の気持ちに素直になろう。


 どう考えても、ここにいていいとおっしゃってくださったことは、やっぱり、嬉しい。

 ずっとここにいたいのは、真実。



「……ありがとうございます。しばらくお世話になります」



 頭を下げた私に、蒼威様は黙り込む。戸惑いながら顔を上げると、溜息を吐いた。



「蒼威様?」


「……うまく伝わらない」


「え?」


「いや、何でもない。慣れないことをして、どっと疲れただけだ」


「あ、申し訳ありません、引き留めてしまって。早く休まれてください」



 慌てて頭を下げた私の髪を、蒼威様は優しく二度ほど撫でた。



 え――。




 蒼威様は無言で私の前から立ち去っていく。

 月明りのない夜は、一気に蒼威様を呑み込んで、もう見えない。


 今のは、何?

 私の髪を撫でてくれた?


 信じられずに、二、三歩後ずさる。

 足に力が入らず、膝が笑っている。

 鼓動が、感じたことがないほど速い。


「――っ」


 蒼威様の大きな手の感触が、消えない。

 淡い熱になって、心に刻み込まれる。

 思わず、その場にしゃがみ込む。鼓動が落ち着くまで、私はじっとしていることしかできなかった。


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