第三話 幸せの定義
部屋に飾った紫陽花にそっと触れる。
蒼威様と初めて魔法を唱えてから、徐々に蒼威様と言葉を交わすようになった。
廊下で会えば、天気の話をしたりする程度だけど、それでも嬉しかった。
一人でいれば塞ぎ込むから、たまに蒼威様にお願いして模写をして気を紛らわす日々。
いつまでこの生活が続くかわからない。でも、少しずつ自分で自分の時間をどう過ごすか決めることに慣れてきていた。
「やあ、元気?」
部屋の中で着物を繕っていると、突然聞き覚えのある声が響いた。
驚いて顔を上げると、そこには和冴様が立っていた。
「和冴様……! しばらくぶりでございます」
慌ててひれ伏すと、和冴様はくすくす笑いながら私から距離を取って腰を下ろす。
「今日はどうされました?」
「別に、遊びにきただけだよ。澄の様子も気になったから」
ありがとうございます、と頭を下げる。
気にかけてくれていたのはとても嬉しい。
「どう? 蒼威は君に優しくしている?」
「はい。すれ違ったら天気の話をしてくれます」
笑顔で答えた私に、和冴様は声を上げて笑った。
なにか、おかしなことを言ったかしら。
「そう。蒼威が天気の話をね……。随分仲良くなったみたいで安心したよ」
「ありがとうございます。私も嬉しいです」
和冴様は苦笑しながら私の手元に目を向ける。
「その着物、あの夜着ていたものだよね。蒼威は君に着るものも用意しないのかな?」
「いえ、そんなことはありません。今着ているものも柳瀬家からお借りしているものですし、他にも十分すぎるほどご用意いただいております。ただ何となく捨てられなくて」
薄汚れた、継ぎだらけの着物。
破れたら繕って、何年も何年も着ていたものだ。
あの夜、さらに破れたり汚れたりしたけれど、大分着ることができる状態に戻ってきた。
本当は、捨てろと蒼威様に言われた。でもご容赦くださいと願い出たのは私。
捨てられないのは、いまだに未鍵家に戻る日があるかもしれないと、ふと思う時があるから。このままいつまでも柳瀬家にお世話になれないだろうし。
そんなことを思うと、急激に不安になる。
私はいつまでここにいられるのかしら。
「……まあ、澄が元気そうでよかったよ。安心した」
朗らかに笑う和冴様は、あの夜のような厳しさは感じない。
底知れない恐ろしさを抱えているのは今もだけれど、こうやって日の光の差す場所で話していると、ごく普通の人懐っこい笑顔を湛えた優しい男性にしか見えない。
「気にかけてくださいましてありがとうございます。今は特に不自由なく過ごしております。少し、手持ち無沙汰ですが」
「君は、聞く限り未鍵家で酷い生活を送っていたようだから、手持ち無沙汰なんて思わずに、ここでのんびり羽を伸ばせばいい」
「酷い生活……。そう、ですよね。今と比べると私もそう思うのですが、正直、未鍵家にいた時は辛いとか感じたことがなかったんです」
「え?」
「それが私の《普通》でしたから。あの生活を何も疑わなかったんです。ここに来てようやくあれは異常だったのかもしれないと思うようになりました」
和冴様は、困ったように眉尻を下げる。
「ごく普通の生活を知らないから、疑わない、か。君は本当に興味深いね。あの奴隷のような生活の中で何が幸せだったの?」
その問いに、戸惑う。
「えっと……、水早緒とおしゃべりをしたり、水早緒が持ってきてくれた差し入れのお菓子を食べる時です」
「水早緒ばかりだね。水早緒以外は?」
何かあったかしら。私が幸せだと思っていたこと――。
「……そうですね。夜中に模写が終わってふと外を見た時に、月が美しかった時でしょうか。他には陽が部屋の中まで差して、頬に当たって暖かいと思う時も幸せになります。私の部屋は北向きで、限られた時間しか陽が差さなかったので」
そこまで話して顔を上げると、和冴様が興味深げに私を見ていた。
「――僕にとっては気にも留めない些細なことを、君は幸せだと感じるのか」
感心したように、何度も頷いている。
「おかしいでしょうか」
「いや、全然おかしくないよ。ただ自分が淀んでいるなと思っただけ」
「え?」
「……君はその名前の通り、澄み切った人だよ」
その言葉が、鼓動を早める。
褒められたのかしら。よくわからないけれど、私のことを悪いようには考えていないような気がする。
「尋ねてもよろしいですか? ――和冴様の幸せはなんですか?」
普通の生活を送る方は、一体何を幸せだと感じるのか。そんな些細な疑問が胸に湧き、気づけば尋ねていた。
私の問いに、和冴様は笑みを深める。
「一族の繁栄」
その言葉が、ぞっとするほど冷たい。幸せの話をしていただけなのに。
「心から、そう思っていらっしゃいますか?」
尋ねると、和冴様は小さく首を横に振る。
「――っていうのが、鷹無家の当主としては正しいんだろうね」
「そうかもしれません。でもご当主様としてではなく、和冴様の幸せをお聞きしたいのですが……。お教えくださいませんか?」
もう一度尋ねると、和冴様はごろりとその場に横になった。
「ほら、君も僕の隣で横になってみて」
突然の申し出に戸惑う。断ろうと思ったけれど、和冴様は手招きをする。
困惑しながらも、和冴様の隣で横になると、ちょうど日が差し込んできていて、私を包むように暖かかった。
「――幸せ?」
投げかけられた問いに、瞼を閉じる。
途端に、穏やかで優しい時間が流れ出す。
「はい。幸せです」
「僕も同じ。陽の光を浴びながら昼寝する時が一番幸せ」
ふふっと笑んでいた。
「僕は少し、何か間違えていたみたいだ」
「え?」
「魔法使いの――一族の繁栄なんかどうでもいい。それよりももっと傍にある幸せを大事にしたい」
「はい……」
「それはきっと、攻撃魔法じゃ駄目なんだろうな」
和冴様はぼそりと呟いた。
攻撃魔法では駄目なら、何ならいいのだろうか。
続きを待ってみたけれど、和冴様はそれ以上何も言わない。
陽の光の暖かさが、まどろみを引き連れてくる。
和冴様の言葉を頭の中で反芻しているうちに、いつの間にか心地よい眠りに落ちて行った。
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