天詠水譚 囚われの模写師と目覚めのとき
梅谷 百@2022/2/25『天詠花譚』
第一章
第一話 親友と裏切り
「
いつからか、彼女の笑顔を見るのが好きだった。
青白く光り輝くそれを手に、満面の笑みを振りまく美しい彼女は、何よりも私の憧れ。彼女のためなら、いくらだって精巧な模写を作るし、なんだってする。
彼女は行く場所もなく路頭に迷っていた私を拾ってくれて、居場所を与えてくれた。
こんな私を目にかけてくれて、ここにいてもいい正当な理由を作ってくれた。
私にとって彼女は神に等しい存在で、
同時に、親友でもあり、姉妹でもあり、他人でもある。
私は彼女ためなら死ぬことだって厭わない。
「……
はにかむように笑うと、水早緒は豊かな黒髪を指先で自分の耳に掛け、黒目がちな大きな猫目を優しく細める。鮮やかな紅を刷いた唇が私に向かって開かれる。
「澄のような優秀な人が、この
「そんな。路頭に迷っていた幼い私を拾ってくれた水早緒や未鍵家には御恩があるもの。これからも頑張るわ」
水早緒は笑顔のまま大きく頷き、私に朱塗りの箱を差し出す。
「これが今日の分よ。よろしくね。明日また取りにくるから」
受け取ると、ずっしりと重みがあった。昨日よりも多いかしら。
その時、庭の奥から女性の歓声が聞こえてくる。
「どうしたのかしら?」
不思議に思って声を上げると、水早緒は「ああ」と頷いて、私を手招きする。
戸惑いながらも水早緒を追って庭に降りる。しばらく歩いて垣根まで行くと、木々の隙間から外の世界が見えた。
沢山の人たち、特に女の人が道に集まって、手を振っている。
その先には、隊列を組んで進む男性たちがいた。
揃いの鎧を着て、整然と練り歩くその姿に、息を飲む。
素敵――。
ちょうど私が外を覗いた時にはもう屋敷を通り過ぎた後で、彼らの背中しか見えない。
進む方向に目を馳せていくと、先頭に、馬に乗り白い衣を纏った男性と、その後ろに付き従う濃い青の衣を纏った男性が目に入った。
「
「え?」
「またどこかの戦に出ていて、凱旋されたのね」
きゃあきゃあと女性が彼らに向かって手を振っている。
「鷹無家のご当主……」
「ええ。本家のご当主よ。見たことなかった? 柳瀬家は鷹無家の分家だけど」
本家の、ご当主様。
どんなお方なのかしら。
馬に乗りながら、白い衣の男性は周囲に向けて手を振っている。
道にいた人々は彼らに向けて笑顔を見せていた。
「特に柳瀬家のご当主は端麗な顔立ちで、女性の人気がすごいの」
あの青い衣を纏った方かしら。女性たちがこぞって彼が乗る馬に向けて手を振って華やかな声を上げている。
ちらりと水早緒を横目で見ると、水早緒も何となくうっとりとしていた。
「お顔を拝見できなくて残念だわ」
「ふふ、澄もそう思うのね。またすぐに戦があるだろうし、戻ってきた時は道に立つしかないわね」
「そんなに戦に出ているの?」
大変だわ、と呟くと、水早緒は頷く。
「そうね。今回は遠征期間が短いから大がかりな戦ではないと思うけど、去年は姉川の戦いがあって、数か月ご不在だったわね」
「姉川?」
「ええ。織田と徳川の連合軍と、浅井、朝倉の連合軍が戦ったのよ。鷹無家は織田家と徳川家の味方をしたそうだけど。大規模な戦だったと聞いているわ」
ああやって元気そうに手を振っているということは、その姉川の戦も、今回の戦も勝ったということか。
「戦が多いのは、大変だわ」
「そうね。でも、鷹無家は日本一と謳われるほどだから大丈夫」
水早緒がそういうなら、きっと大丈夫。
すんなりとそう思えて、頷く。
「負けたほうはどうなったの?」
「かろうじてお家は存続しているみたいだけど、そのうち織田に喰われて消えるわ」
そう言った水早緒は、その大きな瞳を輝かせて微笑んでいた。
――喰われて消える。
私には、戦だとか難しくてよくわからないけれど、鷹無家とその一族が消えてなくなるかもしれないだなんて、思ったことすらなかった。
「どうしたの? 澄、恐ろしくなった?」
尋ねられて、小さく頷く。
「馬鹿ね。わたしがいるかぎり、大丈夫よ」
水早緒は私の手を取って、にっこり微笑んでくれる。
そうよね、と呟いて、ほっと息を吐く。
「さあ、澄は模写に戻って」
水早緒は青い糸で流水の刺繍が施された美しい振袖を翻して部屋に戻る。そして今日私が模写したものを両手に抱えて部屋から出て行った。
一人取り残された部屋の中は、急激に色を失ってしんと静まり返る。でも、水早緒がいた場所にだけ光が差し込んできていて、まるで陽だまりのような彼女がまだそこにいるようだった。
ほんの少しの間だけでも、水早緒と話す時間がとても楽しみ。
彼女が持ってきてくれたお菓子を一緒に食べて笑い合う、たとえ短い時間だとしても、それがあるだけで私にはもう十分。
今日は鷹無家のご当主様がお戻りになったおかげで、水早緒と一緒に庭に出ることができた。
そう思ったら、嬉しくなる。
「よし、早くやらないと。昨日みたいにろくに眠れなくなる」
朱塗りの箱を、文机の上に置く。
北向きのいつも薄暗い小さな部屋の中には、文机と寝具、それと何の変哲もない小袖が数枚あるだけ。私以外に誰かいるわけでもなく、水早緒が訪ねてくる以外は、一日中一人。
別に部屋の外に出られないわけではない。水早緒が住む未鍵家は非常に広い邸宅で、とても多くの人々が、未鍵家のために働いているのも知っている。
もちろん私は自由に未鍵家の中を出歩くことができる。
だから彼らと交流できないわけではない。でも、彼らとおしゃべりに興じるよりも、私は水早緒のために一枚でも多くの模写を作ることのほうが、幸せ。
彼女は数年前にご両親を亡くして、今は幼い弟がこの未鍵家の主。その弟の代わりに彼女は家を護るために奔走しているそうだ。
そんな水早緒のためにも、頑張らないと。
私は自分のこともよく知っている。
女の身で、ここを出たらどう生きていくかもわからない。この仕事以外に食べていける保証なんてどこにもない。
箱の中から、青白く光る紙を取り出し、左手をかざす。すると歌声が聞こえてきた。
私はその言葉を一言一句書き洩らさないように集中して別の紙に書き写していった。
「――はあ。何とか終わった」
ぐっと伸びをして床の上に横になると、冷たさが全身を包んだ。今日は暑かったから、この冷たさが心地いい。
模写が終わって怠惰に寝転ぶこの瞬間が、何よりも好き。達成感と充足感で、胸の中がいっぱいになる。
いつの間にか夜も深まり、燭台の炎がゆらゆらと揺れている。
ゆらぎを眺めているうちに、爆発しそうだった頭の中が徐々に落ち着いていく。
深く息を吐いた時、一枚青白く光る紙が床に落ちていることに気づく。
机が邪魔で見えなかったけれど、水早緒が訪ねてきた時に座った場所だ。
もしかして、水早緒が席を立った時に落ちたのかしら。
今作った模写の枚数を数えても、一枚多い。やはり今日渡したはずのもの。
立ち上がり、自分の部屋から縁に出ると、対面に立つ母屋が見える。水早緒の部屋の灯りがついていた。
まだ起きているなら、届けたい。
そう思って、今日作った模写と一緒に朱塗りの箱に入れて部屋を出る。
まだ水早緒が起きているのなら、白湯でも入れて、少しの間おしゃべりに興じようかしら。
私の仕事が早く終わった日に水早緒の都合も合えば、私たちはそんな風に夜を過ごすことがあった。だから今日もそうしたいと考えながら縁を歩いていく。
水早緒の部屋に向かう途中、客間の中に、誰かがいることに気づく。
夜も大分更けているはずだけど、こんな時間にお客様がいらっしゃるなんて珍しい。あまり邪魔にならないように、足音を潜めて傍に寄ると、襖の向こうから聞きなれた声が響いた。
「――大丈夫よ。未鍵家は鷹無家に成り代わってみせる」
え――。
唐突なその言葉に、全身が動かなくなる。
未鍵家は鷹無家という巨大な権力を持つ家の分家の一つ。つまり鷹無家が本家。
「なるほど。それで貴様が一族を率いる、のだな?」
「そうよ。わたしが鷹無家を追い落として、未鍵家が本家になる。一人でもできるけれど、貴方の提案通り私たちが手を組めば、もっとすんなり事が運ぶわ」
この声は、紛れもなく水早緒だ。
私が水早緒の声を聴き間違えることはない。心臓が、さっきから大きく跳ね上がって全身を小刻みに震わせている。指先は冷え切り、抱えた朱塗りの箱を取り落としそうになる。
「――貴様は勇ましい女だな」
会話の相手は、男性。聞いたこともない声に、戸惑いが隠せなくなる。
恋人? でも今までそんな人がいることなんて一度も水早緒から聞いたことはない。それに、話している内容は、甘いものでは決してない。
むしろ――、心底恐ろしい話。
「わたしと貴方が手を組んだら、この日本も手中に収められるわね」
「そうだな。これで一歩近づいたと言ったところか」
「そうね。でも天下統一のためには鷹無家をどうにかしないと無理。現に貴方は鷹無家を目の上のこぶだと思っている。鷹無家に首輪をかけて従順な犬にしないと、本当の意味でこの国を手に入れたとは言えない。だからわたしに接触して、手を組もうなんて言ってきた。そうでしょ? 大丈夫。私はうまくやる」
理解が追いつかない。
ただわかるのは、水早緒が、本家を裏切ろうとしていること。
そんな。
一歩間違えば、水早緒の命だってない。だって鷹無家は――。
「でもね、悪いけど勘違いしないで。あのぼんくら当主よりもわたしのほうが御しやすいと思っているのなら、大間違いよ。わたしだって貴方の力を借りずとも数年以内に鷹無家を潰せるわ。わたしたちは手を組むだけ。あくまで対等なのよ。貴方の傘下に入って、いいように使われることはないから」
まさか水早緒がこんな恐ろしいことを言うなんて――。
思わず胃の中のものを全部吐き出しそうになって、奥歯を噛みしめて堪える。
膝ががたがたと震えて、立っているのもやっと。
本当に水早緒が言っていることなのかしら。信じられない。
震える唇を噛みしめて、叫び出したいのを堪える。
駄目。水早緒。本家に刃を向けたら、鷹無家から討伐隊が送られてくる。
私、水早緒を失ったら――。そんなのもう耐えられない……。
「御しやすいとは思っていない。確かに貴様が動き出せば、数年のうちに本家の座は入れ替わっているだろう。ただ俺も貴様も、時間が惜しいのは共通している。だから手を組んだほうが早く望んだものを手に入れられる、それだけだ。それに俺は情などで足を掬われたくないから、貴様とはしばらく手を組むだけで全く構わん」
「そうね。わたしも情などいらないわ。わたしたち、とても似た考えを持っているわね」
二人は声を合わせて笑いあう。その中で衣擦れの音がし、明かり障子に写る影が揺れる。
「この話は他言無用だ。どのように鷹無家を切り崩すかは、少し考える」
「誰にも言うわけがないわ。わたしもあなたも、自分の首をかけての大博打だもの」
床が軋む音が響いて、明かり障子に写る影が濃くなる。
部屋から誰かが出てくる――。
――隠れないと!
私は弾かれたように隣の暗い部屋の中に身を隠す。
それと同時に、襖が開く音がした。闇の中で必死に息を殺す。
誰かの足音が、急に消える。まるで立ち止まって、人の気配を探っているよう。
心臓がバクバク鳴っている。早く行って。
お願いだから、一刻も早く遠くに……。
「――どうしたの? 玄関はこっちよ」
水早緒の声がしたあと、誰かが歩き出す音がした。徐々に遠ざかって、いつしか聞こえなくなる。
私は静まり返った部屋の中で、大きく息を吐いた。
頭の中が混乱している。酷く気持ちが悪い。
額に滲む脂汗を手の甲で拭い、荒い息を整える。
水早緒が戻ってくる前に、自分の部屋に戻らないと。
立ち上がったけれど、足に力が入らない。
何度も転びそうになりながら、歩き出す。
どうしよう。
聞いてはいけないことを聞いてしまった。
水早緒はいつも優しくて、明るくて、あんな恐ろしいことを口にするような人ではない。
そう信じていたいのに、耳にこびりついた声が二重三重にもなって甦る。
広がる闇が粘度を伴って、私の足に絡みつく。
わたしは静まり返った部屋を、ふらつきながら後にした。
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