黒い覚悟

bittergrass

1 復讐の旅の始まりは

1-1 長閑な……

 夜。その男は、目の前の光景に驚くことすらままならず、その場に立ち尽くしていた。目の前の、それを理解できない。さっきまで一緒にいたはずなのに、それは既に物も言わない。何が起きたのか、それは虚ろな目で、胸すら動かさずに、そこにあった。


「なんだよ、これ……」




 長閑な村。その村に住む人々は緩く衰退しているのに気が付きながら、それに目を向けず、毎日を気楽に生きていた。その村に住む、世留ヨルという男子も他の村人と同じように生きていた。歳は十八だが、それにしては背が高い。短い黒髪が彼の快活さを表してるようだった。全体的に細い輪郭ではあるが、体はがっちりとしている。その体系に似合う袴を着こなしている。腰の辺りには刀を携えていた。彼の既に両親はいない。出ていったのか、死んだのか、それも定かではないが、彼はあまり気にしていない。その理由は簡単で、彼と一緒に生きてきてくれた人がいたからだ。その人は女性で、名前は遊女ユウ。彼女も彼と年齢は同じで、幼馴染であった。遊女は拾われた子供で育ての親がいるが、最低限の世話をしているだけのようだった。それ以外のことは、二人で協力して生きてきた。お互いがお互いにとってなくてはならない存在で、二人で一人と言う言葉は二人のためにあると言っても過言ではないだろう。


「今日も疲れた。遊羽は大丈夫?」


「私も疲れたけど平気だよ。それに世留ちゃんが手伝ってくれたし」


「それはお互い様。俺たちは補い合ってようやく一人前なんだから」


「ふふ、そうね」


 二人は恋人ではなくとも、それ以上にお互いを思いやっていた。二人は帰路に行きながら、一日中一緒にいたはずなのに、今日あったことを楽しく話していた。


「あら、帰ってきたの」


 遊羽の家に着くと、そこには彼女の育ての母親が玄関先にいた。三十を超えているとは思えない程、綺麗な人だ。しかし、世留にはそれがなんとも不気味に見えていた。人は年を取れば、それだけそう言う積み重ねが顔や手などに出る。しかし、彼女にはそれすらない。まるで、未だに十代であると思えるような不自然さ。未だ、それを遊羽に話したことはない。それを話せるほど、彼は無神経ではないのだ。


 それから、世留と遊羽は別れを告げた。夜は一人で家に帰る。とは言っても、彼女の家の隣の家なので、寂しいとは思わなかった。




 日が落ちて、辺りが暗くなる。虫の鳴き声ばかりが聞こえてくる。


(明日も仕事だし、もう寝ようかな)


 敷布団を用意して、寝る準備を終える。布団の上で寝転がって、少しぼうっとする。目をつむると自然と眠気が襲ってきた。




 深夜、虫の鳴いている声で目が覚めた。今日はひときわ、虫が鳴いていた。普段は虫の鳴き声で目が覚めることはないのだ。彼が寝ている部屋の障子から隣の家の明かりがついているのが見えた。彼は自分の家の障子を開けて、隣の家をみた。時間としては、誰もが寝ている時間。その時間でも、明かりがついていること自体がおかしい。もし蝋燭に火を灯したままだとすると危険だ。だが、二人で一人とは言え、女性の寝室に勝手に入るわけにはいかない。そう考えて、迷っているときに、隣の家の障子の向こうに人影が見えた。蝋燭の揺れる光に、少しの間だけその人型の影が映る。屈んでいるような体勢。彼はもしかして盗賊や魔獣に襲われているのかもしれないと思って、急いで隣の家に向かう。玄関に置いてある刀を一本持って、彼女の元へ急ぐ。


 無断で敷地の中に入り、彼女がいるはずの寝室の前に立つ。一番端の障子が人一人分、空いている。蝋燭の火が揺れていたのはそれのせいなのだろう。彼はその何かを警戒しつつ、障子をそっと少し開けた。その隙間から見えるのは、ただただ黒い人影。影で黒いわけではなく、全身が煙のようにぼやけているのだ。そして、その人影がゆっくりと彼の方を見た。黒いそれには白い丸が二つ、その下に横一文字に延びた白い線。額には二本の角が上を指していた。人間ではない。魔獣でも見たことがない。それが何かはわからないが、伝承で伝わるオニに見えなくもない。しかし、鬼と言うなら筋肉もないし、何より煙のような輪郭が常に変わるような力はオニにはないだろう。だが、今の彼はそれよりも、遊羽を救おうとふすまを開けて、寝室に入った。


 黒いそれの手が遊羽の額と胸の辺りに添えられていた。何をしているのかわからなかったが、直感的に良くないことだと思って、すぐに刀を抜いてそれを斬ろうとした。黒いそれは刀を振りかぶった彼を感じても、動こうとはしない。彼は容赦なく、刀を振るった。しかし、傷一つつけられない。剣が弾かれたというより、何かに受け流されたというのが正しいだろう。彼の攻撃の後、それは遊羽の体から手を離した。それは彼を一瞥すると、開いていたふすまを通って外へと出ていった。彼はそれを追おうとしたが、遊羽の方が心配だった。遊羽に寄って、彼女の顔色を見た。彼女の顔は生きている人間のそれではなかった。肌は何よりも白く、体が一つも動かない。胸すら上下に動かない。それが何を意味するのか分かっていながら、彼はそれを理解することを拒んだ。彼女を直視できない以上、他に目を移すほかない。視線の移動した先には鬼が出ていった隙間。鬼が歩いてどこかに行くのが見えた。そして、それに寄り添うように遊羽の母が歩いていた。


(なんで……? 遊羽を放ってどこに行くんだ?)


 不自然に冷静な脳が、その行為を問いただす。だが、彼の知っている情報では答えはでなかった。

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