交差点
中村ハル
第1話
「今、どこにいますか?」
スマホの通話口の向こうから、平坦な声がした。急ぐでも、のんびりともしていない、ただ、事務的に居場所を問う声だ。
「今……」
僕はあたりを見回す。ざざ、っと、電話にノイズが混じる。今時、電波障害でノイズが入るなんて珍しいと思いながら、通り過ぎたばかりの建物の入り口に貼り付けてあった青い番地プレートに目を向けた。夕刻を過ぎた通りはやけに薄暗く、文字が読み取りにくい。
「ええと、四丁目の交差点のあたりです。角に植え込みがある洋館の」
電話の向こうにいる上司から指示された現場までは、この洋館を目印に左に折れて数十メートルだったはずだ。
「すぐにその場を離れてください。前に進まず、後ろを振り返らず、そのまま後ずさりして三丁目の銀行の前まで」
「え?」
「お気づきかどうか知りませんが、そのあたりに四丁目は存在しないんです」
慌てて地図を確認しようとした僕を、ノイズ混じりの通話の声が止める。
「時間がありません。すぐに、可及的速やかに後退してください」
「わ、わかりました」
平坦な声の冷静さに、却って事の重大さを悟って、じりっと後ろに踵を引きずった。
厭な予感はしていたのだ。
世界的な疫病による不況の煽りを食って失業した僕は、禄に調べもせずに入った勤め先でたった今、ピンチに陥っていた。好条件の急募を逃してはならないと、焦ったのがいけないのだ。
仕事の名目は、地質・建物調査だった。不動産屋から依頼された物件が安全かどうかを確認する簡単な仕事だと言われ、初めのうちは確かにそうだった。僕の仕事は、上司に同行して土地や建物の写真を撮り、時間毎の騒音や近隣住民の動きを記録し、雨の日の土地の水の溜まり具合や、建物内の湿度、雨漏りの有無の調査が主だった。給料が高いのは、時間や勤務日が不規則だからと納得し、表情はよく読み取れないが穏やかな上司と、やや胡散臭い取引先の修繕会社の人たちと、それなりに和やかに働いていたのだ。
ただ、薄々と気付いてはいた。
調査に向かう物件が毎回、どうやらいわゆる曰く付き物件だということに。何件目かの調査で、妙に軽薄なエレベータ修繕会社の人に書類を渡す際に、見てしまったのだ。彼が引っ張り出した封筒の中の書面には、赤い文字で『xx不動産 事故物件』としっかりはっきり記してあった。
だがそれで僕の仕事が変わる訳ではないと、目を瞑っていたのだ。
今回もいつもと同じように、調査に行って、写真を撮り、記録を纏めて書類に起こし、それを取引会社に渡すだけのはずだった。
だが、いつもならば必ず同行してくれていた上司が、今日はいない。
手を入れる箇所があるかも知れず、先に工事会社の人が行っているはずだから現場で合流しろとの指示だった。あとから上司が合流するまで、現場を離れないように、といつになく念を押すように目をじっと見詰められた理由はこれか。
ざざっと鼓膜を揺さぶったノイズと歪んだ呼び声に、はっと電話に意識を戻す。まだ、通話は繋がっていた。
「何があっても、視線は前に」
「まじない的な意味が?」
「ありません。見えたらビビるでしょうに」
「そ、そうですね……」
何がですか、とは怖くて尋ねられなかった。だがしかし、すでに前方の暗がりから、何かがゆらりと歩を進めてきているのだ。振り返って、そのまま走り去りたい。真っ直ぐに続いているはずの十字路の先は、延々と続く黒い闇で、それでいて左右には明かりの灯った家々が軒を連ねている。
その家の暗く霞んだ玄関扉が、今にも開きそうな気がして仕方がない。
「前だけ見ていてくださいよ」
また、上司の声がノイズに歪んだ。
「無理です。だって、前には」
「きっとそいつが一番マシです」
「は、はい」
ぐいぃいと回り始めたドアノブから慌てて目を反らせて、僕はゆらゆらと揺らめく黒い影を見る。ざりり、と後退る靴の底で鳴るのは、アスファルトとは思えぬほどにざらついた砂の感触だ。
どうして、民家の明かりがこんなにあるのに、これほどまでに暗いのだ。そもそも今はまだ宵の口ではなかったか。変な汗が脇と背中を流れ落ちていく。
十字路の信号はいつまでも青信号が明滅して、なかなか赤に切り替わらない。これでは、あれが、渡ってきてしまうじゃないか。いやそもそもあんな得体の知れないモノが、信号など守らないだろう。そういえば、先から、車を一台も見かけない。首を捻って左右を見回したいが、視界の隅から、何かが交差点に近づいているような気配が忍び寄っている。見たら駄目だ。
泣き出しそうになって、僕は唇を噛みながら真正面を見詰めている。
闇の中から、何かがゆらあり、と揺れて交差点に踏み出す。真っ暗な闇よりもなお暗い、真っ黒な崩れた人型の塊。悲鳴を上げそうになった喉の奥が、ぐうぅっと空気を漏らして呻いた。握りしめていたスマホから、ざりざりと耳障りなノイズが上がって、思わずそれを取り落とす。地面を撥ねたスマホは、美しく回転しながら交差点を滑って、中央のマンホールの直ぐ傍で止まった。落とした衝撃で通話が切れたのか、画面は暗い。
唯一の頼みの綱が切れたのを悟って、思わず足が止まる。駆け寄ってスマホを取り戻したい衝動を寸でのところで堪え、また脚を後ろに踏み出した。その背中に、なにかを引きずるような音が忍び寄っている。
前も、後ろも、右も左も。
これって、袋小路じゃないのか。
「可及的速やかに後退しろとは言われたけど、前に進むなとは言われてない……」
前を見ていろとは言われたけど、戻るな、とは言われていない。背後のずるりという湿った音が、段々、近づいてきていた。後ろに引こうとした脚は、本能的にそれを拒んで、筋肉が硬く痙っている。
交差点の青信号は、出鱈目に明滅を繰り返し、その度にあたりがどろりとした黒さに浸されていく。もう、首筋には、冷たくて生温い吐息が吹きかかっていた。
鼓動が限界を迎えて心臓が痛くなりそうな沈黙が、僕を追い詰める。
ぴりりりりり。
交差点に満ちた目眩がするほどの静寂を、電子音が切り裂いた。びくり、と世界が束の間止まる。真っ暗な闇の中で、マンホールの傍に転がったスマホが、眩しく光を零していた。
何かが肩を掠ったのを振り切って、僕は弾かれたように地面を蹴る。ざりっと砂埃を舞い上げた足元が滑るのを堪え、交差点の真ん中に転がり出た。
スマホまではあと少し。画面の表示には『非通知』の文字だ。
伸ばした手が、思わず止まる。着信音はびりびりと闇を揺さぶり鳴っている。
「今、どこにいますか?」
躊躇った指が触れぬうちにスマホは勝手に通話を開始して、聞き覚えのない低い声がきっぱりと暗闇を割った。咄嗟のことで、言葉が出ない。応えてよいのか、それすらも判らなかった。
「どこだ?」
落ち着いた高圧的な声が、苛立ったように僕に問う。
「あ……交差点、です。四丁目の」
「わかった」
ぶつり、と通話が途切れた。
え、と僕は真っ暗に沈黙したスマホを見詰める。
前後左右の黒い影も、戸惑ったように立ち止まっていた。
ただ明滅する青信号が、一斉にばちん、と消えて、僕は今度こそ悲鳴を上げた。
一切の光を失った交差点の真ん中で、ずずず、と重い鉄が地べたをずる音がする。
暗闇の中で、何かが地面からゆらりと立ち上がる気配がした。それから、空を切る音と、疾風。
きいぃん。
硬い金属が地面に突き当たり、砕けた礫が僕の頬を打つ。目を眇めて両手で顔を庇った時、不意に信号がぱっと点った。
赤い光が、交差点を染め上げる。ずれたマンホールの蓋、その脇に立つのは。
「へ?」
どこからどうみても、古式ゆかしい工事現場の作業員、だ。
引き締まった体躯の男は、ニッカボッカに白いランニングシャツ、頭には黄色いヘルメットを乗せている。いや、黒く丸いサングラスをかけているあたり、一昔前の『工事現場の看板に描かれたモグラ』を連想せざるを得ない。
地面に突き刺したツルハシの柄にに片腕を乗せて、彼は、僕を見た。
「どうも」
先程、地べたに転がったスマホから聞こえていた声が、気安く僕に挨拶をする。
「あ、あの」
「モグラだ」
「え?」
「聞いてないか、お宅の上司から」
「ええと、こ、工事の人が来てるはずだって」
「聞いてるじゃないか。遅くなったな」
お前が待ち合わせ場所にいないから探しに来た、とモグラはツルハシを引き抜いて、あたりを見回す。
「現場を離れるなと言われなかったか」
「言われましたけど、辿り着けなくて。それに上司から電話が」
「彼奴が現場に電話なんてするかよ」
足元に転がるスマホに視線をやって、モグラが眉を顰めた。確かに、僕は今まで一度も、上司が仕事現場で電話をしているのを見たことがない。
「繋がるからな、電話回線が」
「何と」
「空間と」
そうすると、と足先でスマホを突きながら、モグラがにやりと嗤った。
「混線して流れ込むんだ、こんなふうに」
無造作に振りかぶったツルハシが、交差点のど真ん中に置かれたスマホに突き刺さる。ぎいん、と耳障りな音が空気を揺さぶり、ぶつり、と何かが千切れて弾け飛んだ。
まるで空気が抜けるように、交差点の中心から闇が急速に薄れて、四つ辻のそれぞれの道に立っていた黒い影が後ろに吸い込まれていく。
「じゃ、お疲れさん」
片手でひょい、とツルハシを引き抜くと、突き刺さっていたスマホを摘まんで投げて寄越す。慌ててそれを受け止める僕を尻目に、モグラは何事もなかったかのようにマンホールに歩みを進め、するりと中に滑り込むと、あっという間に蓋を閉めて消えてしまった。
それと同時に不意にあたりが明るくなり、鳴り響くクラクションに我に返ると、僕は赤信号の交差点のど真ん中に突っ立っていた。
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