3-9

 放課後。


 補習のために3階のあの教室に向かい、前方側の扉をガラリと開けた。


「……黒川」


 いつもならば教卓前でパラパラと教科書を捲っているはずなのに、今日は違った。黒川紅涼は俺が来るのを見計らっていたように、扉側に向かって突っ立っていた。


「あんな形で仕返しをしてもらっても、嬉しくもなんとも思わないから」


 軽蔑するように目を細め、黒川は冷たく放った。


「むしろいい迷惑よ。何だか私があんなことしちゃったみたいでしょ。ホント、いい迷惑。私の評判が悪くなったらどうしてくれるの? ちゃんと責任取ってくれるの?」

「………………」


 黒川は前髪を掻き、


「せっかく色んな人の補習を受け持って、努力して。私の評判が悪くなったら全部水の泡よ。……まったく」

「……悪かった」


「…………結局、キミだって伏見さんと一緒。大勢の前で……晒す行為は…………晒す……行為……は……」

「…………?」


 黒川の口から紡がれる言葉が次第に詰まり出す。…………どうしたんだ?


「んっ……えぐっ…………ぐすんっ…………」

「…………!?」

「…………んっ……、サイテーな……行為…………よぉ……………」


 完全に声が詰まると、昨日と同じようにボロボロと涙を零し始めたのだ。


「わっ、悪かった! だから泣くなって!」


 一人ポツンと泣きじゃくるので、どうしたらいいか分からない。しかも今度は俺が原因のようなので、胸に襲いかかる罪悪感は凄まじい。

 とにかく俺は黒川へ駆け寄った。


「…………くっ、黒川?」


 美少女、と評しても差し支えのないほどのルックスを誇る黒川紅涼。彼女は溢れ出る涙を手で拭きながら、


「…………ありがとう」


「…………え?」

「…………今まで……こんなことしてくれる……人なんて………いなかったからぁ…………えぐっ……。誰も助けて……うぅっ……くれなかったからぁ……、……んっ…………」


 黒川は自分から俺の胸元へと近づいた。彼女の額が俺の胸に当たる。制服越しではあるが、温かな感触が伝わってくる。


「ふふっ、黒川、これで涙を拭いてくれ」


 ポケットに手を突っ込んで黒川にそれを差し出す。

 名残惜しいが黒川は俺から少し距離を置き、


「……これ」

「今日はちゃんとハンカチを持ってきたぞ。同じ失敗はしない主義でね。それと、ポケットティッシュもあるから使ってくれ」


 涙を流しながらも黒川はクスッと笑って、


「……バカ、そんなの持ってるのが当たり前だから」


 そう言いつつも俺が差し出したハンカチを受け取り、目尻の涙を拭いていくのであった。


「ま、医者になりたいんだったら黒川のわだかまりはしっかりと解消しないとな。患者だって、真剣に看てくれる医者のほうが嬉しいだろうし。伏見みたいな連中を見下すって気持ちで医者になられても、患者は困るだろ」

「うん。私が医者を目指すのも、ずっと前に診てもらった女医さんがカッコよかったからってのもあるし……。それが本音だけど……」


「まーでも、俺で運が悪かったな」

「……えっ?」

「正直俺の行動はアレだ。褒められたモンじゃない」


 俺の取った行動が決して良かったモノではない、自分でも言った通りそれは自覚している。しかしながら、これ以上の選択肢は見つからなかった。


「篠宮にでも相談すれば、もっとスッキリした解決ができたんだろうな。それに俺の部には篠宮以外にも、もっと綺麗に解決できるヤツがいる」

「……そっか。でもね」

「……でも?」


 涙はすでに止まっていた。黒川は優しげに微笑んで、


「神宮寺くんで良かったって、心の底から思うよ」

「そうか、そりゃあありがたい」


 とは素っ気なく言ったものの、何だか妙に恥ずかしくなって黒川の顔が直視できない。


「もうっ、恥ずかしがらないで。たしかに神宮寺くんの行動は最低の部類だけど、私の前ではもっと胸を張ってもいいの」

「いやいや、胸は張っちゃマズイだろ。もっとマシな方法がなかったか反省するよ」


 今夜ベッドに入って睡眠に身を預ける前に、脳内で本日の反省会でも開こう。

 …………でもな。


 ――――今だけは、黒川紅涼に褒められたことを素直に喜ぶことにした。



 そして本日が最後の補習であり、名残惜しいと感じつつ黒川の授業を受けた俺。さっきまで泣いていたとは微塵も思わせないテキパキとした振る舞いで授業をしてくれた黒川先生。


 そうして50分間の補習が終わり、普段通りコーヒーブレイク。ああ、これも最後のコーヒーブレイクになるのだろうか?


「結局、私を満足させるお菓子は持ってきてくれなかったんだ。板チョコレベルで私の舌を満足させられると思ってるの?」


 結局とは言えど、お菓子を持ってきたのは今日が初。その初めて差し出した献上品だが、どうやら黒川は不満げのようだ。


「ああ、姉ちゃんがバレンタインデーでチョコ作る時に余らせた板チョコだ。彼氏がウマイって叫びながら食ってたチョコの原料なら大丈夫だろ」


 マドラーでコーヒーをかき混ぜつつ、黒川は呆れ顔で、


「はぁ、そういう無駄な情報は言わなくてもいいのに。てか、言うな」


 そう言って差し出してくれたコーヒー。俺はカップの取手を掴み、コーヒーを口の中へとゆっくり注いだ。


 ああ、やっぱり口に広がる味と香りは変わらない。

 黒川は銀紙を剥がした板チョコをバリバリ頬張りつつ、


「それで神宮寺くん、流石にあの後音沙汰なかったワケはないよね?」

「ああ、呼び出し喰らった。20分くらいしたら職員室に行くよ」

「大丈夫? 一緒に行ってもいいけど……? キミの弁護くらいなら……」


「まあ、呼び出したのは榊原海音だからな。学年主任とかだったらヤバいけど、一人で大丈夫じゃねぇの? それと黒川は無関係だろ。あれは俺が勝手にやったことだ」

「強がらなくてもいいのに。…………星ヶ丘さんにだって、きちんと事情を説明してあげれば……」

「……ああ、知ってたのか」


 詳しい話を聞くと、俺と星ヶ丘の姿を廊下で見た後、まさかと思って授業後に伏見咲夕の所属する教室へ向かい、知り合いに事の詳細を聞いたらしい。


「星ヶ丘なんて気にしなくていいぞ」

「……でもっ」

「星ヶ丘と一緒だと目立つんだよなぁ。俺は教室の隅で過ごすのが好きだからよ。これでいいんだ」


「……神宮寺くんがそれでいいなら、それでいいけど」

「それに、やっぱり星ヶ丘とは住む世界が違うわ。アイツはクラスの中心で、俺は隅。そっちのほうが住み心地いい」


 どっちが優れた世界で、どっちが劣った世界という話でもあるまい。単純に自分の好みに合わせればそれでいい、俺はそう思う。


「そっか。たしかに、そっちの世界のほうが居心地いいのかも。私だってそれは同じ」


 俺は時計を確認し、まだ時間に余裕があることを知る。だから余裕を持ってコーヒーを一口飲み、


「俺はこの一週間、黒川や星ヶ丘を見て決めたことがあるんだ」

「……決めたこと? うん、聞かせて」

「黒川は勉強でトップクラスだろ? 星ヶ丘はスポーツでトップクラスだろ? で、俺はこの一年、何もない。身体を動かさない部活に入ったし、勉強の成績も悪くはないがトップクラスって言うほどでもない。ま、微妙だ」


 中途半端、その言葉が一番似合ってしまうのが今の俺。


「で、トップクラスの人間を見て嫉妬しちゃったってこと?」

「正直に言うと、そうだな。特に同年代で凄いヤツ見ると尚更だ。それと、中学の頃を思い出したのもある。野球も勉強もキツかったけど、追い抜いて上に立つのはやりがいがあった。んで、もう一度上に向かいたくなった」


「まさか野球部に転部することは……ないよね?」

「ないない、もう野球は無理だ。今更始めても精々ベンチ要因だろ。今、俺にできることと言ったら……やっぱり勉強だな。とにかく頑張ってみる」


 もちろん、中途半端な覚悟で言った言葉ではない。途中、結果がでなくて辛い時期もあるだろうけど、その時は中学時代を思い起こせばいい。


「ぶっちゃけ、私だってトップクラスとまでは……。上であることは間違いないけどね」

「俺からすればトップに見えるんだよ。その世界はまだ知らないからな」


 黒川は手にしていたカップをコトンと置き、


「だったら文系と理系、違いはあるけど勝負しない? どっちが上だって」

「ふんっ、やってやろうじゃねえか」


 こうして互いにライバル宣言っぽいのを交わし、しばらく雑談を交えた後、コーヒーブレイクの時間は終わった。


 この時口に含んだコーヒーの味はいつまで経っても忘れられないだろう。

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