シャンパンのせいにして
那木 馨
男:白黒①
夜道を少女と並んで歩いた。人影のない住宅街。
このまま二人で家に着いたら隣を歩くこの少女を自分は抱くだろうと分かっていた。まだ中学生の、自分の姪を。
今時ピアニストを雇って演奏させるような本格的な店は多くない。高性能のスピーカーと生の演奏の違いが分かるようなお客もほとんど居ない。いい顔をしようと連れの女性に一夜漬けのうんちくを話す男性客を嫌と言うほど見てきた。それでも奏者にとってステージは特別な場所だ。
久々に声をかけられたジャズバーでの演奏は大成功だった。ピアニストの姪をボーカルに交えて一曲披露するというサプライズにも、店に来ていた人達は喜んでくれた。姪の美香は思春期独特の不安定な色気がある声で堂々と歌い切り、まだ興奮の色が残る頬をしながら今俺の隣を大人しく歩いている。お互いに口数は少ないけれど、俺はこの興奮に任せてきっと抱くし、それを分かったうえで付いて来られている気がする。時々様子を窺うように視線を送る姪の仕草はたぶんそういうことだ。
街灯だけの道を歩いてアパートに着いた。もうすく丸六年になる八畳一間の部屋だ。俺が鍵を開けて目線で促すと姪っ子は嬉しそうに中に入って靴を脱ぎ始めた。引っ張ったら千切れそうなブーツの紐を丁寧に外して両方の靴を脱ぎ終えると「ただいまあ」と言いながら奥へ入っていった。
「お前んちじゃないだろ」俺も靴を脱いで後に続いた。
「ゆんにい、なんか飲みたい」
この部屋で唯一の一人用ソファーを占領して伸ばした足を遊ばせている。
冷蔵庫を開けると飲み物とミネラルウォーターかレモンチューハイしかなかった。コンビニで新発売なのを見かけて買ったやつだ。
「水ならあるぞ」
「ジュースとかないの」
不満げな声を出して美香が俺の背後にやって来た。「あ、これあるじゃん」と、とっておきのチューハイに手を伸ばした。
「それ酒だぞ」
「ご褒美。今日ゆんにいがお客さんから褒められたのも美香のお陰でしょ」
「俺が楽しみに取ってたのに……」けど実際、その通りだ。
「じゃあゆんにいなんか買ってよ」
そう言いながら、もうプルトップに指をかけてプシュッと軽快な音をさせていた。
「お前の母さんから怒られても知らないぞ」
「言わなかったら分かんないでしょ」
「お前帰らなくていいのか」
こんな時間にここまで来たんだ。どのみち泊ってく気なのは分かってる。それでも聞いて見せたのはつまらない儀式の一部、もしくは大人としての体裁を整えて起きたかったからだった。
「……ゆんにいは、帰って欲しい?」
逆に聞き返された。こんな小娘が、どこでそんな技術を学んでくるんだと怪しく思う。まさか、学校に彼氏でも居るんだろうか。
「姉さんが心配するだろ」美香の母親のことだ。
「大丈夫だよ。今日ゆんにいの家泊まるって言ってあるし」
その時丁度よく俺のスマホが鳴ってメッセージの受信を知らせた。姉からのメッセージだ。『美香そっちで泊まってくと思うから』とだけ書かれていた。当日に言ってくるあたりがあの姉らしい。
俺の様子を見て美香は、体を寄せて後ろからスマホの画面を覗き込んだ。
「ほら。言った通りでしょ」お酒の香りのする声がすぐ傍で聞こえた。
「分かった分かった。ほら、早く寝るぞ」スマホをポケットに入れようとしたら美香が後ろからおぶさってきた。
「やあだあ。まだ眠くないもん」こなきじじいみたいに俺に体重を預けてくる。背中に確かな女性特有の柔らかさを感じる。
「危ないだろ。酔ってるのか」
「酔ってないし。家でもたまに飲んでるもん」
「はあ? 未成年だろ」
「お母さんが、少しくらい嗜んどいたほうが大人になってから失敗しないからって」
「全くあの姉は……」
「ねえゆんにい?」
「何?」
「これから何する?」
「……寝るんだろ」
美香が喉の奥で笑う声が聞えた。
「嘘つき。本当は寝たくなんてないんでしょ?」
美香を降ろして缶を取り上げるとチューハイを持ったまま腕を回して唇をめがけてキスをした。まだ子供な姪の唇は小さくて繊細で、自然といつも以上に注意深く慎重になった。
顔を離して息を整えると缶は机に置いて姪をベッドに運んだ。さっきまでお調子者だった美香は人形のように従順に俺の意志に従って、下から静かに俺を見つめていた。大人しく俺の動きを待ちながら緊張と不安を覗かせる、大きく黒く潤った目。
どこもかしこも新品の革製品みたいな肌で覆われた姪の体を感じながら、その親である姉と義兄のことを考えた。知られたきっと怒られるだけじゃ済まない。温厚な義兄はともかく、あの姉は刃物くらい持ち出してきそうだ。時折美香の口から声が漏れている。仕方がない。こうなった以上、俺が悪い。
ことが終ったゴムの口を縛っている頃には、美香はぐったりと動かずに規則正しいリズムの呼吸を繰り返していた。
「……風呂、入る?」
数秒してから美香の顔が横に揺れた。「後でいい……」
「そう。俺、先入る」
枕元にミネラルウォターのペットボトルを残して風呂場に向かった。
濡れた髪をドライヤーで乾かして戻って来ると美香はソファに膝を立ててチューハイの缶に口を付けていた。
「飲むなって」
「大人ってこんなのが美味しいの? 変な味」
「さっきは平気で飲んでただろ」
「なんかさっきと違う味する」
「ぬるくなったんじゃないか」
「飲み始めちゃったから、最後まで飲む」缶を傾けて一気に喉に流し込んだ。
「馬鹿辞めろ。そんな飲み方大人だってしない」
腕を掴んで無理矢理缶を口から離させた。少し零れた水滴が美香の着ている俺のTシャツにかかった。
「辞めてよ、鼻にかかった」シャツの袖で鼻を擦っている。
「無茶するな」
「大人はよくこうやって酔っ払うんでしょ」
また口に流し込んでチャレンジしたけれど、飲み込んだ後は舌を出して「まずう」と悪態をついた。
スマホの画面を見るともう午前一時を過ぎている。中学生が起きているには遅すぎる時間だ。
「もう遅い。早く風呂入れ」
「はいはい。言われなくても分かってます」おどけた声と共にチューハイの缶を置くとのんびりとした足取りで風呂場に向かって行った。風呂場のドアが閉まって少し経つと、水の音と一緒に鼻歌が聞えて来た。
置き去りにされた缶を手に取った。本当に飲み切っている。昔からこうと決めたら最後まで押し通すタイプだ。まあ、それだけ気が強いからこそ今日のステージもやり切れたんだろうけれど。
俺が小学生の頃に両親は離婚した。一人っ子だった俺の目には表立った問題があるようには見えなかったけれど両親の関係は長いこと良くはなかったようで、離婚を伝えられたのは書面上の手続きも済んだ後だった。特に反抗することもなく俺は母親に引き取られ、すぐに再婚した相手の連れ子だったのが今の姉だ。年の離れた姉は俺が中学生の夏休みに美香を生んだ。
女の子ということもあって可愛がられて育った美香は小さい頃から音楽関しての勘が良かった。女児向けアニメの主題歌は楽器の音が無くても音程を外さずに歌えたし、幼稚園のクリスマスイベントでは聖歌隊のメインとして定番のクリスマスソングを最前列で歌ったらしい。
俺が大学でピアノを学んでいた時も美香はよく実家に出入りしていた。というより、若くして生んだ姉の代わりに俺の母親が半分美香の親だった。
遊びに来ている時はどんなに他のことに夢中になっていても俺がピアノを弾くと寄って来て、じっと隣で聞いていた。大学を卒業してなんとかピアニストとして働くようになってからは、学校の友達にも親戚がピアニストだと自慢していたらしい。そんなことが自慢になるなんて女子の考えは良く分からない。
俺が贔屓にして貰っているお店に美香も出入りしているうちに今回の共演の話が持ち出された。大人の店に年端もいかない娘を出させる親も親だが、血が繋がってないとはいえ姪っ子に手を出してしまえる俺も俺だ。俺と姉はろくでもない所だけは似ている。
美香タオルを首にかけて風呂から上がってきた。さっきより薄着のせいか中途半端に膨らんだ胸と出しっぱなしの脚が目に付く。
「そんな恰好じゃ冷えるだろ」
まだ残暑が残っているとは言え夜は半袖では寒い季節になってきた。その辺にあった適当なパーカーを差し出したけれど美香は受け取らなかった。
「こうすれば寒くないよ」そう言うと美香は俺のベッドに潜り込んで猫のようにくるまった。「ゆんにいくさーい」と笑い声をあげている。
そりゃこの歳の男からフローラルな香りなんてするわけない。
「俺どこで寝るんだよ」
「え? ここだよ?」美香は当然のように布団を捲って俺が入れるスペースを開けた。
体の小さな美香が居ても、ベッドにはまだ余裕がある。
大人として、男として、注意しようかと思ったけど今更だと思い直した。全部見た後で一緒寝るのを躊躇うのもおかしな話だ。
誘われるままベッドに体を滑り込ませて体の行き場を探した。
「ねえ、ゆんにい」
「何」
「凄いことしちゃったね」狭いベッドで内緒話を楽しむように囁いた。
「……さっさと寝ろ」
「はあい」
美香の体が俺の背中にぴたりとくっついている。
バイトの休憩中、大学時にお世話になった教授からメーッセージが来た。『悪いが明日また手伝ってくれませんか』。まかないの玉ねぎを食べながら返信を打った。『分かりました。昼前にはそちらに伺います』。
大学を卒業してジャズピアニストをしているとはいえ、それだけで生活しているだけの稼ぎにはなっていない。牛丼屋でアルバイトをしつつ、時々こうして大学の教授の手伝いをしている。教授の手伝いをするとご飯代をくれるし、いつでも大学のピアノ練習室を使わせてくれる。
送信ボタンを押すとスマホの画面を閉じて牛丼の残りを口に運ぶことに集中した。残り時間がもう少ない。なんとか食べ終わると身なりを整えてホールへ向かった。ピアノの音色じゃなく、牛丼を待つお客の居るホールへ。
次の日、行き慣れた大学の研修室のドアを開けると教授はコーヒーカップに粉末のミルクを入れているところだった。
「ああ、待っていたよ。悪いね」スプーンでカチャカチャとかき混ぜている。
「いえ。こちらこそ」
「早速だけど、こっちを頼むよ」教授は部屋の奥にあるドアに顔を向けた。
「はい」
傍のソファに荷物を置いて隣の部屋へ続く薄いプラスチックのドアを開けた。狭い部屋には本棚と資料がすし詰めにされている。小さな天窓から日光が入るはずなのに、窓を塞ぐように置かれた棚のせいで意味をなしていない。収まりきらないものは棚の隙間を埋めるように乱雑に詰め込まれている。色味のない蛍光灯の光が余計に薄暗さを強調している。ここにあるのはどれもこれも歴史上の音楽家の資料や音楽理論の本、楽譜ばかりだ。片付けがてら眺めるだけでもいい刺激になる。
ここの教授には在学中に教えて貰っていた。口数は少ないけど、生徒の演奏をよく聞いて必要なことだけくれる先生だった。生徒と先生という関係以上の会話をしたことはなかったけれど、卒業間近の飲み会の席で声をかけられた。進路をどうするのかと聞かれたから「ジャズピアノを弾きたいです」と伝えると、いくつか馴染みの店を紹介してくれた。その時に「良ければ連絡先を教えてくれないか」と言われて番号を交換した。卒業して暫く連絡が来ることはなかったけど、ピアノで生活していくことの大変さに打ちのめされていた頃「少し手伝いに来てみないか」と見透かされたようなメッセージが送られてきた。
それ以来、こうして定期的に教授の手伝いをしている。
以前どうして俺なのかと尋ねてみたら「君が一番人間臭い気がしたから信用できると思った」と言われた。
埃っぽい屁をを眺めて一番手近にある棚の中身から取り掛かることにした。上に積まれた本を一度どかしてきちんと並べ直していく。製本されていない楽譜は軽くシワを伸ばしてファイルに入れる。もう何度かやってきた作業なのでそれほど手間取ることはない。
ただ、こうしている間にも他の奴らはちゃんとピアノの練習をしているんじゃないかと不安に思う時がある。大学を卒業していった仲間は一般企業に就職をしたり、どこかの団体に所属して立派に音楽で生活をしている。そうじゃない奴らはいつか来るチャンスを逃さないように、今もきっと歯を食いしばって音楽と対峙している。
いつまでも教授の世話になって資料整理なんかしている自分だけが、迷子センターに取り残された子供じゃないかと思ってしまう。
それでもやっとジャズピアノの仕事ができるようになってきたところだ。先日の演奏も美香を含めていいものが出来た感触があった。あの日の帰り道、演奏を終えた時のお客さんの顔が忘れられなかった。演奏前より強い衝動を抱え込んだまま店をでて、何かにぶつけないと抑えていられなかった。そのシワ寄せが姪の美香に行ってしまったことには悪かったと思っている。
資料室の三分の二ほどを整理できたところでドアが開いて教授が顔を覗かせた。
「大分進んだね。この間生徒から貰ったお菓子がある。休憩しよう」
「すみません。有難うございます」
作業を止めて部屋の中に戻るとコーヒーの香りが漂ってきた。隅に置かれたドリッパーから少しずつ黒い水滴が落ちている。教授はポットからカップにコーヒーを移して俺の前に置いてくれた。
「最近ここのコーヒーじゃないと飲めないんだ。嗜好品にハマると良くないね」
「いただきます」一口啜ってみた。
コンビニで買う百円のコーヒーと何が違うのかは良く分からない。教授は向かいの椅子に座るとゆっくりとカップを傾けて深いため息をついた。
「教授、授業はいいんですか」
「あとは個人レッスンが一人あるだけだ。まだ時間はある」
「そうですか」と返してから、無愛想な返事をしてしまったと反省した。
「柚木君のほうはどうかな。順調かな」
「はあ、まあ。教授に紹介いただいた店でこの間演奏しました」
「ああ、それなら聞いたよ。店長と話す機会があってね。なかなかいい演奏だったって褒めてたよ。君の親戚が歌ったんだろ?」
心臓がs跳ねた。「……姪が、一曲だけ」
「いい歌声だったそうだね。曲目は?」
「テイクファイブを。姪がジャズはそれしか知らないと言うので」
「英語だろ? 難しくないか」
「分からない箇所は僕が教えました」
「そうか。大したもんだ」
「姪は良くやってくれました」
実際美香は予想以上だった。俺自身、あそこまで歌えるとは思っていなかったほどだ。センスが問われるアドリブ部分もちゃんとジャズらしい音の取り方ができていた。まあそれは、たまたま動画で見かけた人の真似だと言っていたけれど。
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