2. 知依子

 放課後、教室から下駄箱へ歩いていると、廊下の向こうから言い争う声が聞こえた。

 わざわざ曲がり角の向こうを覗き込まなくたって、私にはその声の主がわかってしまう。


「――わたしのことが一番好き、って言ったくせにっ」

「いやっ、それとこれとは別っていうか……」

「別ってなに? 同じだよね? その人のことがわたしよりも好きなんでしょ?」

「いやだから」

「もういい。一番じゃないなら、もういいよ。バイバイ」

「は? バイバイって――」

「バイバイはバイバイだよ。さよなら、お別れ、グッドバイ。死んじゃえ!」

「最後だけバイバイじゃないんだけど……ちょ、小夜闇⁉︎」


 縋るような男の子の声を蹴散らすように、ぱたぱたと軽快な足音が曲がり角の向こうからこちらにやってくる。

 そして、ばっ、と角を曲がって姿を現した彼女はびっくりしたように大きな目をまん丸に見開いて私を見た。

 ダークチョコレートみたいに真っ黒で艶々のセミロング。見開かなくたって大きくてぱっちりとした二重の目に、ぷっくりと形の良い桃色の唇はロリポップが似合いそう。鼻筋は綺麗に通っていて、肌は立てたばかりのホイップクリームみたいに汚れなく真っさらだ。

 とっても可愛くて可哀想な、愛すべき恋愛モンスター。

 その瞳にみるみるうちに涙が溜まって、引き結ばれた唇がふるふると震える。


「……もう、小夜闇ったら、またなの?」

「チーコぉぉぉ!!」


 呆れたように呼びかけると、感情が決壊したみたいに小夜闇は私の胸に飛び込んできた。ぐはっ。


「みぞおちっ……」

「ねえぇぇ、聞いてよチーコ!」


 私の呻きなど聞こえていないみたいに、小夜闇は私のみぞおちに自分の頭をぐりぐりと押しつけて不満を爆発させる。


「うん、今度はどうして別れちゃったの?」


 先回りして私が尋ねると、小夜闇はぷくーっとほっぺを膨らませた。


「だって、わたしのことが一番好きって言ってたくせに、他の女に浮気してたんだよ? 許せなくない⁉︎」


 ぷるぷると、小夜闇は全身で悲しみを表現していてまるで悲劇のヒロインのよう。彼女は自分の武器を完璧に理解している。どういう表情が一番可愛いか、どういう仕草が一番似合うか。それなのに、彼女の恋愛は全然うまくいかない。器用な彼女は根っこの部分でものすごく不器用だから。キュートでポップな私の小夜闇。あぁ、本当に可愛くて可哀想。

 小夜闇が私の胸の中で涙に溺れている間も、幾人か見知った顔が廊下を通り過ぎていく。通り過ぎざま、小夜闇の様子を見ては「またか」みたいに笑う子もいれば、直接的に「小夜闇ー、またフラれたんかー?」なんて言ってくる子もいる。


「フラれたんじゃなくてフッたの!」


 小夜闇は齧歯類みたいにほっぺを膨らませたまま両手を振り上げて怒る。全然怖くなんかないし、むしろ可愛いんだけど。

 いっつも男を取っ替え引っ替えしている小夜闇だけれど、不思議と同性からも愛されている。まぁ、高校に入学したての頃ならともかく、一年の二学期も終わろうとする今となっては小夜闇の悪評は既に知れ渡っていて、女子人気の高い男の子なんかは明らかな地雷臭のする小夜闇に手なんて出さない、っていうこともあるだろうけれど。

 後はまぁ、年相応の恋愛っていうよりも幼子がわがままを言うみたいな小夜闇のそれに本気で張り合うのも馬鹿らしい、っていうのもあると思う。どうせ小夜闇は誰が相手でも長続きしないから、待ってればいいっていうのもあるし。それに加えて校内でアンケートを取れば十人中十人が「可愛い」と答えるであろう小夜闇の容姿だ。それがあれば多少奇矯な行動も愛嬌として許容される。ズルいけど、可愛いは正義だ。

 そんなわけで、小夜闇はなんかもう『そういう可愛い生き物』みたいな扱いになっている。それでもまぁ、深く関わるのはみんな面倒なようで、いつも一緒にいるのは私くらいだけれど。

 ひとしきり通行人と可愛いやり取りを終えた小夜闇に、私は言う。


「小夜闇、私たちも帰ろ。話は途中で聞くからさ」

「えー、帰るのー? どっか寄ってこうよ、チーコぉ」

「えー? 別にいいけどー」


 甘えるように腕にしがみついてくる小夜闇に、私は「仕方ないなぁ」という顔を作って答える。


「やったー、じゃあ今日はチーコの奢りでスタバ!」

「なんで私が奢るの」

「だってわたし、失恋して傷心なんだよ?」

「自分からフったんでしょーが!」

「向こうが浮気したのが悪いんだもん!」


 無邪気に笑ってそう言う小夜闇は、もう全然傷心って感じもなくて、多分小夜闇は今回の相手のことも結局そんなに好きってわけじゃなかったんだろうな、って思った。




「――で、小夜闇。浮気って何されたの?」

「だから、わたし以外の女のことが好きだったんだって!」


 帰り道にあるスタバでクリームもりもりの甘ーいフラペチーノをずごごごーと啜りながら小夜闇はむくれる。艶々の唇にちょん、とクリームをくっつけて、あざといったらない。


「小夜闇、クリームついてる」

「あ、そう? ……ん!」


 私がちょい、と口許を指差すと、彼女は目をつぶって唇をこちらに少し突き出した。


「いや、自分で拭きなよ、まったく……で、その女っていうのは?」


 私はナプキンで小夜闇の口許を拭ってあげながら話の先を促す。


「えー、なんかー、わたしはよく知らないけどアイドルのなんとかちゃん? って言ってた」

「よく知らないアイドルのなんとかちゃん」


 知らなさすぎてもはやなんの情報もなかった。


「まさか、そのアイドルのなんとかちゃんと付き合ってたの、そいつは?」

「付き合ってたっていうかー、なんか握手会? とか、イベント? とかに行ってたらしくて、それって浮気じゃん?」

「なるほどねー……」


 握手会、イベント……それって、要するにただのファンってことだ。

 あぁ、また小夜闇の悪い癖が出たのだな、と私は合点する。まぁ聞く前からそんなこったろうと思ってはいたけど。

 小夜闇は、自分のことを好きな人が好きだ。単純で、中学生みたいな恋愛観。けれど小夜闇のそれは揺るぎない基準として彼女の中に存在している。だからこそ、彼女は相手が自分以外の誰かや何かに想いを向けるのを許さない。それが例え、テレビやスマホの画面の向こうのアイドルや二次元の存在であっても。結局、相手は小夜闇のその独占欲というか束縛的なノリに耐えられなくなってしまって、彼女曰く『浮気』にあたる行為をしてしまう。……そんな関係、どう考えたって長続きするわけない。


「ねぇ、小夜闇? 一応言っておくけど、その『好き』は恋愛の『好き』とは多分違うよ?」

「えー? 好きは好きでしょ? チーコってば変なの」


 小夜闇はクリームをスプーンで掬いながら、こてん、と首を傾げる。その仕草は呆れるくらいに可愛いけれど、その可愛さは呆れるほどの無知からくるものだ。

 少し意地悪な気持ちになって、私は小夜闇に尋ねる。


「それじゃあさ、小夜闇。私は小夜闇のこと好きだけど、私とは付き合えないでしょ?」

「え」


 小夜闇の大きな目が、さらにまん丸に見開かれる。

 それは、ちょっとした出来心だった。無理だよね、こんなふうに好きにも色々あるんだから手当たり次第に付き合うのはやめて、ちゃんと自分の『好き』と相手の『好き』が噛み合うかどうか考えなよ、って。

 それなのに、小夜闇は私の想像を軽々と超えてくるのだ。


「えっ、チーコ、わたしのこと好きなのっ?」


 飲みかけのフラペチーノをぽいっ、とテーブルに投げ捨てるように置いて、小夜闇は私の方へと身を乗り出してくる。その瞳はきらきらと零れんばかりに光っていて、私はぅぐ、と喉が詰まる。


「そ、そりゃあ好きだけど……あ、あくまで友だちとしての好きだから……」

「好きは好きなんだよね?」

「そりゃあ好きじゃなきゃ一緒にいないし……」

「ねえチーコ、それって一番?」

「へぇ?」

「だからぁ、わたしのこと、一番好き?」


 ぐいぐいとくる(精神的にも、顔面の距離的にも)小夜闇に私はたじたじになる。大きな瞳は真っ直ぐに私の目を覗き込んできて、なんだかくらくらする。

 高校で出会ってから、小夜闇は私の――


「そんなの、一番に決まってるじゃん――」


 友達として、と言いかけた私の手をがっし、と握ると、小夜闇はとびきりキュートに笑う。


「それじゃあチーコ、わたしと付き合おっか!」


 その無邪気に私の好意を信じ込んだ笑顔に見つめられては、とても「ううん、やめとく!」なんて言うことはできなかった。

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