第6話 ―― 葉月Side ―― 1/4
「はぁ……はぁ……」
――頬に当たる風が気持ちいい。今まで、こんなに走った事はあったでしょうか?
「はぁ……はぁ……」
――知らない気持ちが溢れてくる。今まで、こんなにドキドキした事あったでしょうか?
「はぁ…………はぁ」
――心が満たされる。今まで、こんなに好きだって思った事、あったかな?
「……先輩」
◇
高校2年の秋、めずらしく早く帰って来たお父さんを迎えて家族三人で夕食を食べていた時、お父さんが何の前触れもなく聞いてきました。
「葉月、今度知り合いの喫茶店でアルバイトを始めてみないか?」
夕食のシチューは、牛肉をトロトロになるまで煮込んだお母さん特性の一品です。口に入れるとホロホロとお肉が解れ、幸せが口いっぱいに広がります。
でも、そんなお父さんの一言で、幸せな気持ちがちょっと無くなってしまいました。
「……アルバイト?」
あまり大きな声で言えませんが、私の家は裕福です。
お母さんは専業主婦で働きに出ていませんし、私は欲しいものを買って貰えなかった記憶がありません。
それが今になってアルバイト……もしや!? お父さんの会社で何かあったのかもしれません!
つまりは……そういう事ですね。きっとお母さんも働きに出るのでしょう。なら私も、今まで育てて貰った恩を返すため、一生懸命働きましょう!
学校も私立でお金が掛かりますから、自主退学するしかないですね。
これからの生活を色々と考えていると、お母さんが笑いながら話しかけてきました。
「葉月ちゃん? 変な想像してるようだけど、違うからね~? お父さんの会社も順調だから安心してね」
「そうだぞ葉月、会社は問題ない。アルバイトの理由を話してなかったな」
お父さんとお母さんが微笑んでいます。
どうして私の考えていることが分かったのでしょうか? 不思議です。
「葉月も来年で高校を卒業するだろう? 卒業後は大学に通うにしても、うちの会社に入るにしても、今より大きな社会に組み込まれることになる。だから今のうちから社会勉強のためにアルバイトしてみたらどうかと思ってな」
「そうよ~葉月ちゃん。アルバイトで色々な事が学べるわ。お金を貰う大変さを今のうちから経験しておくことは良いことよ? 何より……カッコイイ彼氏が見つかるかもしれないわ♪」
「ママ何いってるの! 葉月に彼氏なんて早すぎる! ダメだダメだ!!」
「もう、パパは心配性ね。今の時代、女の子も積極的にならないといい子は取られちゃうのよ? 運命の相手がいつ現れるかなんて、誰にも分からないんだから。私たちがそうだったでしょう?」
「うぐぅ……」
どうやらお家の事情じゃないようで安心しました。
でもアルバイトにはちょっと興味があります。喫茶店とか大人な感じがして憧れますし、やってみようかな。
「わかりました。アルバイトやります」
私の回答に、お父さんはちょっとホッとしているようです。
確かに、二人の言っている事は分かります。
私は小学校から今までずっと女子高に通っていますので、男性との接触はほとんどありませんでした。今のうちから男性に慣れておけということでしょうか……?
男の人の事は良く分からないけど……優しい人と、お付き合いが出来たらうれしいです。
「いいわぁ葉月ちゃん。恋する乙女の顔つきになってるわ。葉月ちゃんは可愛いし、すぐ彼氏が出来そうね。男の子に告白された事なんてないでしょう? ふふ、ちょっと甘い言葉を囁かれたら、コロッとやられちゃうんだわ♪ 彼氏が出来たら連れて来るのよ?」
「……くっ。とりあえず社会勉強だ! 働く大変さを勉強してくるんだ!! 男は作らんでいいからな!?」
お母さんが変な事を言っています。私は社会勉強に行くのです。そんな簡単に彼氏なんて作りませんし、そもそも、私はそんなチョロイ女じゃありません!
そうして私は、喫茶店でアルバイトをする事になりました。
◇◇
ついにアルバイト初日がやってきました。
初めてのアルバイトで、不安と期待でドキドキしてしまい、前日はあまり寝付けませんでした。
アルバイト先の喫茶店は珈琲の良い匂いがして、アンティーク調の店内が素敵です。制服も黒のロングワンピースに白いエプロンで、可愛いです。
マスターさんに店内を案内して頂き、お仕事は接客と配膳、お掃除をすることになりました。
マスターさんにはとても丁寧に説明して頂き、更には教育係として一人付けてくれることになりました。正直なところ、一人でお仕事するのは不安だったのでとても嬉しかったです。
「黒川さん、彼があなたの教育係となる中野さんです。分からない事があったら何でも彼に聞いて下さいね」
「は、はじめまして。黒川葉月と申します。よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ。中野です。よろしくおねがいします」
すごく緊張してしまいましたが、何故か中野さんも緊張している様子です。どうしたんでしょうか? ちょっと面白いですね。
「じゃあ中野さん、黒川さんのことは頼みましたよ。アルバイトは初めてなので、丁寧に教えて上げてくださいね」
「わかりましたマスター。頑張ります!」
これが、私と先輩の、初めての出会いでした。
◇◇◇
「……先輩。使い終わったフキンはどこに置けばいいでしょうか?」
「こっちのボックスに入れてね。後でまとめて洗濯するからね」
アルバイトを始めてから、しばらく経ちました。
お仕事が、こんなにも大変だとは知らなかったです。ご来店の対応、オーダーの取り方、料理の運び方、お会計、お見送り、清掃などなど。
オーダーも単にお客様の注文を取るだけかと思ってましたが、珈琲の種類や料理の質問をされたりして、何と答えて良いか分からくてアタフタしてしまいました。
でも、そんな時に先輩が助けてくれて……ちょっと嬉しかったです。
男性と接する機会が今まで少なかったので、男性にはちょっと怖いイメージがありました。
でも先輩は……とても優しくて、想像していた男性とは違いました。身長も平均的で、特段イケメンと呼ばれる男性ではありませんが、安心できる方です。
先輩はとても丁寧に仕事を教えてくれて、優しいです。……けど、何故か接し方が妹を世話するお兄ちゃんのような気がします。私にはお兄ちゃんがいませんので想像ですが、不思議です。
今日はお客様も少なくて、カウンターに並んで待機しています。いつもより仕事に余裕がありますので、ちょっと勇気を出して先輩とコミュニケーションを取ってみようと思います。あまり無駄話をしてはいけませんが、ちょっとだけです。
「……先輩。大学って楽しいですか?」
「大学かぁ。楽しいといえば楽しいかな? でも思ってたのと全然違ったよ……」
私も来年高校を卒業したら大学に行くかもしれないので、ちょっと興味がありました。でも、どういうことでしょうか?
「大学生になったらさ、自然と友達いっぱい出来てサークル入ったり合コン行ったり、それで彼女が出来て、彼女と同棲したり……毎日が幸せなんだろなーって思ってた」
「……」
「でも実際に入学してみたらさ、仲の良い友達が2人出来ただけだったよ。サークルもちょっと覗いてみたけど、イケイケな雰囲気が合わなかった。勉強ばっかりで出会いもなく、彼女なんてどうやって作ればいいんだろって思うよ……」
「……じゃあ、大学に入って……その、後悔してるんですか?」
言い終わってから、すごく失礼な事だと思ったけど、気になってしまった。
「そんなことないよ。修二と玲子さんっていう二人と友達になれたからね。二人はイケメンと美女のカップルなんだけど、一緒に居てすごく楽しいんだ。大学で楽しくやっていけてるのも、二人のおかげだね。今度紹介するよ」
「わかりました。楽しみにしていますね」
……変な雰囲気にならないで良かった。先輩の笑顔を見ると、こっちも嬉しくなる。
「あ、もう一個だけ良い事があったよ」
「……?」
先輩がこっちを向いて来てました。目が合います。先輩がちょっとニヤけています。なんでしょうか?
「葉月ちゃんと出会えた。大学に来てなかったら、葉月ちゃんとは会えなかったと思う。葉月ちゃんと一緒に仕事するようになって、すごく楽しいんだ。だから……大学に来て良かったと思うよ」
なんでしょう、顔が熱いです。胸がドキドキします。先輩の笑顔が、目から離れません。
この人は、なんで急にこんな事を言うのでしょうか?
こんなとき、何て答えれば良いのでしょうか?
頭が混乱して、すごくドキドキして、恥ずかしくて……。
咄嗟に変な事を言ってしまいました。
「……先輩、ぶちころしますよ」
「そんな~」
なんか楽しいです! 自然と笑いあってしまいます。でも、それがまずかったのでしょう。
「あ~、中野くんサボってる~。ちゃんと葉月ちゃんを教育しないとダメでしょ~。メッ、だよ♪」
「す、すみませんでした~」
先輩が加藤さんに怒られてしまいました。私のせいなので申し訳ないですが、ちょっと先輩、加藤さんにデレデレしすぎじゃないですか!?
先輩は年上好きってギャル先輩が言っていました。加藤さんを狙ってるんでしょうか……。
アルバイトを始めて、ちょっと気になる先輩が出来ました。
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