第1話 神保町の編集者

 東京の神保町じんぼうちょう

 多くの出版社が集まるこの町に、星月社せいげつしゃは存在する。


 面積で言えば決して大きくなく、外観もくたびれてきてはいるが、立派な自社ビルだ。バブルから世紀末へ向かう狂騒の中で建ったこのビル――星月社ビルは、今や、静まりゆく文芸界を30年にわたって眺め続ける時計塔のようになっている。


 5階建てのフロアは、1階を純喫茶じゅんきっさ愚者ザ・フール』が埋める。その横、決して大きくないエレベーターと非常階段が向かう先は、2階に雑誌部、3階に文芸部、4階に書籍部が入っている。正式名称はそれぞれ「編集部」が付くが、出入りする者たちほど省略する文化だ。最上階である5階には、役員室、応接室、外向けの会議室が詰め込まれている。


 社員同士の打ち合わせは各フロア内で行われることがほとんどだが、他の社員にはばかる内容であったり、作家や取材対象との打ち合わせの場合は1階の純喫茶「愚者ザ・フール」が活躍する。かつて星月社から大ヒットを飛ばした昭和しょうわ文豪ぶんごう、亡き後はその夫人がオーナーを務める純喫茶は、薄暗い店内と濃い味のコーヒー、広い喫煙席きつえんせきで、作家、記者、編集者、すべてから拠点として愛されていた。


 星月社文芸編集部・白戸しらと昭宏あきひろもここの常連だ。


 気がつけば、入社から10年以上が経っている。

 いつか安く感じるようになると思っていた一杯700円のアイスコーヒーは、今も昔も高級品にしか思えない。新人編集者だった頃も中堅と呼ばれるようになった今も、一人で入るには気後きおくれする値段のまま、変わらない。


 レトロさを感じさせるジャズ・ミュージックを背に、白戸はノートPCのキーを叩いていた。

 いまがた、店内で作家の一人と打ち合わせを終えたばかりだ。

 作家を二重のガラス戸の外まで見送った後、再び席に戻り、メールの返信を続けていた。

「星月社の社員はすぐに帰らない。700円がもったいないから」

 ザ・フールの店員なら常識となっているそのことに、苦笑いせずにはいられない。


 阿久津あくつくんと出会ってから……もう5年か。


 この10年、出版業界において雑誌と文芸の凋落ちょうらくすさまじい。

 漫画は電子市場への移行も進んでいるらしいが、雑誌と文芸は出版部数を右肩下がりに減らし、その待避所すら見つからないのが現状だ。携帯電話、メール遊び、SNS、動画投稿サイト、ソーシャルゲーム……娯楽の中心は、書籍から完全に離れた。かつて、電車の中には文庫本があふれていたが、今では200人が入る山手線一車両で、数人開いているかどうかだ。


 昔は……『趣味は読書です』って言えば無趣味って見られるほどだったんだけどな。


 小説を楽しむことは特殊能力じゃなかった。誰でもできることだった。

 でも今では、『プロレス鑑賞です』ぐらいの、わりと攻めた趣味だよな。そういえば最近、『趣味は人間観察です』も聞かなくなったな……ケータイとスマホが普及ふきゅうして『手持ても無沙汰ぶさたな待ち時間』が無くなったからか……


 今度、阿久津くんに「昔は『趣味は人間観察』って言う人がけっこういたんだよ」と教えてあげよう。彼のことだからいいリアクションをくれるにちがいない。

「わかります。俺、志築しづきのことなら、志築以上に再現できます」とか変態的なことを言いそうで怖いけど。歌舞伎かぶき女形おやまか、君は。


 文芸を取り巻く情勢は苦しいどころか悪化の一途いっと辿たどっているが、M県から東京に出てきて元気に大学2年生をしている阿久津のことを思い浮かべると、我が子のことのように嬉しい。新世代を象徴しょうちょうするような「一切本を読まないでネットからデビューした作家」は、数々の試練を乗り超えて、今や盤石ばんじゃくな書き手の一人へと向かっている。刊行点数だけで言えば、4月の『ホーリー・ダークⅡ』ですでに10冊。ほとんどの作家が一桁ひとけた前半で作家としての命を終える中、充分によくやっている。高校2年生の時に書いた『レッドゲーム』以降、着実にファンは増えているのだ。


 問題は……『彼』の方だよな……


 そこまで考えたところで、白戸は小さく首を振った。

 

『彼』はまだまだ、これからだ。

 作家デビューから間もない若者を「最終兵器」なんて呼んで、社の命運めいうんを背負わせる出版社の方が問題だ。

 白戸は、自らを一人前にしてくれた師匠の言葉を思い出す。


 俺は古い編集者、お前は新しい編集者。

 だが、編集者の使命は今も昔も変わらない。

 才ある作家を見出し、共に成長の道を歩むこと。

 作家を手助けし、執筆に集中してもらうこと。

 良き本を、読者に知らせ、手に取らせ、持ち帰らせ、読んでもらうこと。

 俺たちにできることは、それだけだ。


 ……そう。企画的なあれこれは良き本を読者に届ける手段であって、目的ではない。

『彼』に今時間が必要なら、時間を与えるだけだ。

 そしてその間にも、この険しい道を歩むことができる逸材いつざいを探すのみ。

 それが僕、白戸昭宏の文芸への関わり方であり、恩返しだ。


 白戸が一杯700円のコーヒーを飲み干したとき、机の上のスマホが振動を伝えてきた。

 文芸編集部編集長の関谷せきやからだった。



「5階の会議室にいる。すぐに来られるか」



 来れるかじゃなくて、来られるか。ら抜き言葉を厳しくチェックする関谷さんらしい。

 白戸は派手なアクションをする猫のスタンプで「OK!」と送り返した。

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