第18話

 家に帰ると、父が母を殴っていました。日が暮れる前から父が荒れていることは珍しく、慣れない事態に足がすくみました。

 母は床に倒れていて、父がこぶしで腹を殴っていました。母はほとんど抵抗する力もないようで、弱々しく咳き込み、父の見開いた目は血走っていました。いつもは殴っても一発か二発で、母が倒れればそれで終わるのが常でしたが、父の手はとまる様子がありませんでした。

 わたしは叫び、父の腕をつかみました。その時初めて父はわたしに気づいたようにわたしを見て、腕を振ってわたしを突き飛ばしました。

 壁に打ちつけてしまった頭の痛みを憶えています。父がわたしに暴力を振るったのはそれが初めてで、父の力の強さ、自分の体の軽さに驚かされました。

 父はすでに母に目を戻していて、母の襟を掴んで揺さぶり、母の頭がゴンゴンと床に打ちつけられ、母の長い黒髪がもがくように揺れていました。

「やめろ!」

 わたしは再び叫びましたが、壁際に座り込んだまま、父に近づくことはできませんでした。力では勝てない、また突き飛ばされると思うと、体がすくんでしまったからです。

 父はわたしに顔を向けることもせず、立ち上がって外へ出て行きました。

「地獄に堕ちろ! クソ親父!」

 わたしは閉じられたドアへ叫びましたが、おそらく届きはしなかったでしょう。

 母を介抱しようとすると、母は「大丈夫」と言って起き上がり、台所へ行って水を飲んで咳き込みました。「大丈夫」と繰り返す母を見ていると悔しくなって、わたしの目に涙がにじみました。

 その時、窓のすぐ外に立ってこちらを見ている小柄な人と目が合いました。ナジュです。

 ナジュが窓の前から消えたと思ったら、玄関のドアを叩く音がしました。乱暴にドアを開けると、なにを思ったのか、ナジュが立っていました。

「なに?」

 わたしが言うと、ナジュは少し怯えたように微笑みました。

「リンゴの砂糖漬けをつくったから、うちに食べに来ませんか?」

「え?」

「いや、あの、また話したいなと思ったので」

「そんな気分じゃないから」

「タリアと付き合ってるんですか?」

「え?」

「家に行ったり二人で会ったりしてるって噂聞きました。それなら諦めますけど、そうじゃないならわたしとちゃんと話してほしいです」

「付き合ってないよ。ナジュはまだ子供じゃないか。どうしてそんな」

「子供じゃありません。わたしのことを助けてくれたって聞いてから、ずっと気になってたんです。わたし、相談乗ります。つらいことがあったらわたしのところに来てください。頼りないかもしれないけど、あなたを守りたいんです。好きだから」

「なんでそんな」

「今も泣いてるじゃないですか」

 突然怒りがわいてきて、わたしは彼女を睨みました。

「女のガキのくせに偉そうな口叩くなよ」

 わたしがドアを閉めようとすると、驚いたことに、ナジュはドアに手をかけました。

「大丈夫。わたし、あなたを馬鹿にしたりしませんから。絶対に優しくしますから」

 わたしは勢いよくドアを閉め、ナジュの手が挟まり、「ぎゃ!」という叫び声とともに引っ込みました。

 振り向くと、母が目を見開いてわたしを見ていました。その深淵のような目に魅入られた数秒ののち、母は黙って奥へ行きました。

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