第16話

 タリアと別れたあと、わたしはタリアが一人で村を出て行ったことを誰にも話しませんでした。現実感がなかったせいもありますが、どうしようもなく内心にわだかまるタリアへの敬意が無視できなかったからかもしれません。

 タリアがいないと騒ぎになったのは、翌日の昼頃でした。わたしは仕事を免除されていましたが、二日酔いも午前中に抜けたので、いつも通りに畑に出ていて、慌てる大人たちが、タリアがいないと騒ぐのを横目に見かけました。

 その翌日、タリアが見つかったという話を聞きました。わたしはすぐには信じられませんでした。彼女の意思は明らかに固かったし、賢い彼女のことだから、上手く距離を稼いで逃げおおせると思っていたからです。わたしの村は、狩りではなく主に農業で暮らしていましたから、足跡を読んだり、山の中を歩いたりすることに長けた人もいなかったはずですし。

 みんなはタリアが見つかってよかったと話していました。しかし、肝心の本人の姿は見えず、なぜか憔悴して臥せっているという話を聞きました。

 わたしは心配になりました。そんな義理はないと思いつつ、様子を見に行きたい衝動に駆られました。でも、一度拒絶した手前、顔を出すのもかえって迷惑かと逡巡しました。そんな時、道端で昼飯を食べているわたしに、ヒューが声をかけてきました。

「タリアが連れ戻されたらしいね。家から出てこないみたいだけど、大丈夫かな」

 わたしはぶっきらぼうに「さあ」と返してしまいましたが、失礼だと思い直しました。

「ヒューは見舞いに行こうとか思う?」

「一緒に行くか?」

 彼はわたしの心を見透かしてしまったようです。そしてわたしはヒューと一緒にタリアの家を訪ねました。

 家にいたタリアのお母さんは、わたしたちを歓迎してくれました。こんなに優しそうなお母さんを置き去りにして村を出て行こうとするとは、やはりタリアのことは理解できないと思いました。

 タリアのお母さんは、果物の皮を煮出した汁を混ぜて甘くしたフルーツ水を出してくれ、ヒューに、「いつもタリアに勉強を教えてくれてありがとう」と礼を言いました。

「外に興味があることは知ってたけど、まさか相談もせずに勝手に出て行こうとするなんてね。大人しい子だから、思い切ったことなんてしないと思ってたけど、逆に大人しいから、なのかしらね。心の中にいろいろため込んでいたのかもしれない。それをわかってあげられなかったのが悪かったのね」

 そういうお母さんに、わたしは「違う」と言いたくなりましたが、言葉になりませんでした。その時、気持ちを整理することができたとすれば、「お母さんのせいじゃありません。タリアは自分でしっかり考えて決めたことなんです」と言っていたでしょう。

「あの子、なにも話したくないって言って部屋に閉じこもってしまっているんだけど、二人になら会いたがるかもしれないわ」

 お母さんはタリアと話しに行き、ヒューとわたしは許可を得て、タリアの部屋に入りました。

 初めて入ったタリアの部屋はカーテンが引かれていて薄暗く、タリアがベッドのわきの椅子に座っていること、机とその上の何冊かのノート、壁にかけられた服のほかにはほとんど物がないことくらいしかわかりませんでした。

「タリア、大丈夫?」

 声をかけたのはヒューです。タリアは「ええ、大丈夫」と答えました。

 その声はしっかりしていましたが、硬い口調はいつものタリアとは違うと感じさせました。

「あんた、来たの」

 と、タリアはわたしに言いました。

「うん。心配になって……」

 もし部屋が明るければ、まともに顔を見られなかったかもしれませんが、ほとんど光が入ってこないせいで、わたしはタリアの顔を薄目で窺うように見ました。彼女は、いつも通りの無表情に見えました。

「一緒に来ればよかったのに。そうしたら、あんたの好きな人とまた会えたのに」

「え? あの人に連れ戻されたの?」

 そう言ってしまってから、わたしは自分の口を片手でふさぎました。これだとまるで、あの人のことが好きだと言ったみたいだからです。タリアが、わたしが好きだと思い込んでいる人、という意味だと弁明しようとしましたが、やはり、言葉が上手く出てきませんでした。

「事前に、山を下りる道筋は決めていたの」

 タリアは必要以上に滑らかに話しだしました。

「ちゃんと準備してたんだよ。絶対失敗したくなかったから。何日かかけて、山の中に入って、楽に下りられそうなところを探して、ほとんど下りかけて戻って来たこともある。そうやって道の目星をつけておいたの。だから、暗くても下りられる自信はあった。でも、やっぱり計画通りにはいかなくて、夜が明けても、まだ知っている道のままだった。早く違う景色へ抜けたくて、足を速めたの。急な斜面だったけど、しっかり足元を確認しながら行けば大丈夫だと思った。でも、地面から出っ張っている木の根に足をかけた時、いきなり木の根が折れたの。なぜか腐っていたみたいでね。それでバランスを崩して、わたしは転んで、そのまま斜面を転がり落ちてしまったの。その先に倒木があって、その木の裂け目にうつ伏せにはまり込むような形になって、やっと止まった。なんとか起き上がろうとしたけど全然だめで、腕を突っ張って下を見たら、お腹に木片が突き刺さっているのが見えた。それはちょうどおへその辺りからわたしの中に入って、背中から突き出ていた」

「え?」

 わたしは声を上げてしまいました。タリアはわたしを見て、軽く笑ったように見えました。

「痛くて、どんどん血が出て、体から力が抜けていった。死ぬってこういうことなんだなって思った。なんて馬鹿な死に方なんだろう、この自然は、世界は、わたしを殺そうとしてるんだなって思った。自意識過剰だって、わかってはいるけど、そうとしか思えなかったよ。すべてのものから憎まれてる気がして、そのすべてから離れられるんだって思うと、安らかな気持ちになってきた。馬鹿だけど、間抜けだけど、これでいいんだって。それで、わたしは死んだの」

「でも、きみは生きてる」

 ヒューの言葉に、タリアはうなずきました。

「気がつくと、あの人がわたしを抱っこしてた。細い腕でわたしを軽々と抱えて、山道を登ってた。いつもの白いワンピースを着てね。わたしのお腹の辺りがものすごく熱かった。でも痛みはなくて、なんだか頭がぼーっとして、夢を見ているみたいで。でも、あの人の近くにある顔はやけにはっきり見えた。こわくはなかった。このまま眠ってしまいたいって感じ。でも、あの人の体は、わたしの体よりもさらに熱かった。高熱を出したとしても、あんなに人の体は熱くならないよ」

「なんだ、死んだ気がしたけど、死んでなかったってことだね」

 わたしはあきれてため息をつきましたが、タリアは言いました。

「わたしの体に木片が突き刺さったのは明け方。わたしが意識を取り戻したのは、その翌日の午前中。そのことに気づいたのは、村に帰ってきてお母さんに教えてもらってからだけど、丸一日以上、わたしは放っておかれていたことになる。それに」

 タリアは立ち上がり、服をめくってお腹を見せました。

「なにもないでしょ」

「夢を見たんだよ」

 わたしは声を張り上げました。

「怪我をした夢を見たんだよ。本当は、転んで意識を失っていただけなんだ」

「そうだといいと思う。どうしてかはわからないけど、ものすごく鮮明な夢を見たんだって。でもわたし、自分が死んで、生き返ったんだって気がする。どうしても、そんな気がしちゃうんだよ」

「いずれにしろ、タリアが無事でよかったよ」

 ヒューの言葉をタリアは肯定しませんでした。

「全部がくだらないって感じがする。前からちょっとそんな感じはあったけど、この村から出れば、そんな感覚はなくなるって思ってた。でも、もうそんなこと、この感覚がなくなることはあり得ないんだって、まだ死ぬことが許されないって思うと、体全体が石になったみたいな気持ちになる。わたし、生き返らないほうがよかったんだよ」

 ヒューとわたしは必死でタリアを慰めましたが、タリアは、「こんな話してごめんね。心配しないで。自殺はしないから。くだらないからね」と言っただけでした。

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