第13話
その頃、父は食糧管理の仕事を回されていましたが、畑仕事に河川整備の仕事もしていた夏頃と比べれば暇になってしまい、家にいて寝ていることが多くなりました。気まぐれな時間に起きては母に当たる頻度も増えてきた時、母は医者代わりの教師の助けをする役目を仰せつかったようです。母が家を空けることが増えて父と顔を合わせる時間が減り、わたしは内心安堵しました。母が立候補したのか、誰かが気を回してくれたのか、それとも偶然なのかは、今でもわかりません。
母は、あの年かさのほうの旅人の看病に参加していたのですが、その甲斐なく、彼は凍傷と衰弱によって息を引き取ってしまいました。よそ者だが仕方ないということで、冬の固い地面を掘って埋葬したようです。
雪が解けてきた頃、ヒューが村の墓地にいるところを見かけました。木立の陰に座り込んでいる様子があまりに悲しそうだったので、思わず、肥料の落ち葉を運ぶネコ車を引いいている時に立ち止まってしまいました。
彼はわたしに気づき、きまり悪さを打ち消すように手を挙げて挨拶すると、わたしに近づいてくると、「大変そうだね」と声をかけてきました。
名前を尋ねられたので答えると、彼は、「ミサの息子さんかい?」とわたしの母の名前を出しました。
「彼女には大変お世話になったよ。相棒を懸命に看病してくれてね。残念なことになったけど、感謝してるって、伝えてくれ。彼が息を引き取った時は取り乱してしまって、ろくにお礼も言えなかったから……」
そう言っているうちにまた悲しそうな目になったので、わたしは、「大事な友達だったんだね」と言いました。
「うん、そうだね」
そう言うと、彼は思いついたように口調を変えました。
「わたしがこの村に居つきたいと言ったら、みんなは認めてくれると思うかい?」
「ここにずっといるってこと?」
「相棒のそばから離れる気になれなくて。今は先生のところにお世話になっているけど、どこかに自分で小屋でも建てて住もうかと。この村は、移住は歓迎してるんだろうか?」
「外から来た人もいるよ」
わたしは、アダレイのことを思い出しながら言いました。その時、彼女は姿を消してしまっていたわけですが。
「そうか。じゃあ、村長さんに相談してみるかな」
彼は、相談に乗ってくれてありがとう、と礼を言ってくれました。彼は、わたしが知っている人の中で、かなり感じのいい人物でした。それは、彼がほかの町という別世界から来たせいなのかとその時は思いましたが、今なら、それが彼の人柄だったのだとわかります。
そういうわけで、ヒューは春が来ても、村にとどまりました。廃屋を補修して小作人となり、集会にも参加するようになったようです。村の若い女性の誰かと所帯を持つという話もあったようですが、なぜか彼のほうから断ったと噂が流れてきました。
ほかの女性もヒューに言い寄っているようでしたが、上手くかわされてしまっていると見えました。彼に近づくというか、つきまとっている人の中の一人はタリアでしたが、タリアは、年上男性を射止めようとするませた少女ではなく、まったく別の動機があったようです。
タリアは、畑仕事が終わって帰ろうとしていたわたしのところへ駆け寄ってきて、一緒にヒューのところへ行こうと言いだしました。
タリアは、小さな頃からまったく変わらない態度で、無造作にわたしの手を掴むと、ほとんど強制的にヒューの家にわたしを連れて行きました。
「ヒュー、こんにちは。仕事が終わったあとならお話をしてくれるって約束だったよね」
タリアはまるで自分の家かのように慣れた態度で、椅子に腰を下ろして言いました。
「昨日してくれた哲学や法律の話、とても面白かった。続きを教えて」
そう言われて、ヒューはあきれたように微笑み、「わかったよ」とうなずきました。その時のわたしには、「哲学」も「法律」も、言葉の意味さえわからなくて、知らない物語のタイトルのように聞こえました。
「えーっと、昨日はなんの話をしたんだっけ」
そう言ったヒューに、タリアは、「道徳と法律の違いについてだよ」と即答しました。
「どちらも社会を維持するために必要なもので、人を縛るものだってことは同じだけど、法律は外から人の行動を縛るもので、道徳は内から人の心を縛るものだって話」
「ああ、そうそう」
ヒューはうなずきます。
「道徳は法律ができる前からあるもので、法律は道徳をもとにして、社会に秩序をもたらすために、いろいろな人が一生懸命考えてつくったものなんだ。だから守らなくちゃいけないんだけど、所詮は人がつくったもの。完璧ではないから、常に見直して、もっといいものにつくり変えていかなくちゃいけないんだ。そういう作業が、立法府と呼ばれているところでは、毎日行われている」
「そこでは、高等教育を受けた人たちがたくさん働いて、話し合ったり、決を採ったりしているわけなのね?」
「その通り。そうして決まったことは、新聞や張り紙や伝令でみんなに伝えられる。でも、ここみたいな山奥には情報が伝わらないから、関係ないことみたいに思えてしまうと思うけど、ここだって、国で決まった法律のもとにあるんだよ」
「でも、わたしはブンキさんやヒューから聞くまで、法律のことなんて知らなかったよ。この村も法律のもとにあるって言われても、やっぱり実感がわかない。いくら法律は人の心の外にあるって言っても、ほとんど誰も存在を知らないってことは、やっぱりここには法律はないってことになるんじゃないかな?」
「鋭いね、タリア。確かに、誰もこの村の存在や、中で起こっていることを知らなくて、村人が誰も法律のことなんて気にかけていないとしたら、法律はないも同然だと思う。でも、そうではないんだよ。知られていないってことはない」
「誰が知ってるの?」
「神様だよ」
「え? お役人さんとかじゃないの? 神様が、空から見てるってこと?」
「空からじゃないよ。神様は、僕たちの中に混ざってるんだよ」
「それって、いろいろなものに神が宿ってるっていう考え方?」
「そういう考え方もあるけど、そうじゃない。神は、人や動物とはまったく違う存在なんだ。でも、僕たちと一緒にこの地上に存在している」
「精霊みたいなもの?」
「タリアは本当にいろいろなことを知ってるね。精霊とも違う。実体があるんだ。ねえ、考えてみて。神とは、なにをもってして神と言えると思う?」
タリアは考え込みました。ヒューはわたしを見ましたが、わたしにはさっぱりです。
「わからない」
タリアが音を上げると、ヒューはきっぱりと言いました。
「力だよ。決して逆らえないもの。それが神なんだ。それは、嵐などの自然現象だったり、死だったり、時間だったりもするし、人々が心の中につくり出したものであったりもする。そのたくさんの神の中に、実体を持ち、僕たちのことを見ているものも存在しているってこと」
「そういう神様が見ているから、この村にも法律があるってこと?」
タリアはヒューを尊敬しながらも、この話は信じがたいと思っているのが伝わってきました。
「そうだよ。信じられない?」
「うん。まあ、法律があると思ったほうがいいのかもしれないけど、わたしの感覚としては、この村は道徳だけでなんとかなってる気がする」
「確かにそうかもしれないね。極論を言ってしまえば、法律がなくても、道徳があればみんな上手くやっていけるはずだしね」
「でも、道徳は人の心にあるとしても、法律と違って、人それぞれ違っちゃうわけだし、生まれ育ちが違ったら別の道徳になるだろうし、そもそも誰が決めたの?って思っちゃう」
「そう、そこも大きな問題だし、そもそも道徳が機能していないんじゃないかという説もある」
「道徳が機能していない?」
「前時代は、道徳が崩壊して、一部の人たちが勝手に法律を変えて好き放題なことをしたせいで終わってしまったと考えられているんだ。みんなが殺し合って、なにもかもを壊してしまったんだって」
「どうしてそんな馬鹿なことをしたの?」
「どうしてだろうね。いろいろな理由があると思うけど。文明が発達しすぎて、人の心を失くしてしまったのかな」
わけのわからない話の中で、初めて疑問が浮かんできて、わたしは問いました。
「人の心ってなに?」
ヒューは、「うーん」と首をかしげました。
「ほかの人を思いやることで、自分も幸せになるってことじゃないかな」
「思いやって、幸せになる?」
その答えは、わたしにはまったくもって的外れに聞こえました。彼はおそらく、自分がいい人だから、他人もいい人に違いないと思い込んでいたのかもしれません。
もう日が暮れたからお帰り、とヒューに言われ、彼の家を辞した帰り道、タリアは、「面白かったでしょ?」と言いました。
わたしはとても同意する気にはなれず、「タリアは面白いの?」と質問で返しました。
「うん。わたし、村の外へ出てもっと勉強したい。あんたはそう思わない?」
そう言われて、わたしは「いや、別に思わないけど」と首を振りました。タリアは、「やっぱりあんたはそうか……」とあからさまに残念そうな顔をしました。
「この村から一生出ずに、畑仕事だけして暮らすつもり? 本当にそれでいいの?」
「意味がわからないよ。畑仕事することのなにがいけないの?」
わたしは心から素直にそう言いました。
「別に、畑仕事がだめだって言ってるわけじゃないよ。ただ、世の中にはもっとほかのことがたくさんあるんだよ。それを知ったうえで、畑仕事したっていいじゃない」
「ヒューもここで暮らすことにしたのに、タリアはまだ、ここから出て行きたいの?」
タリアはいつもの不機嫌そうな表情に戻り、唇をかみました。
「わかってるよ。現実的じゃないってことは。ヒューだって、一歩間違えればさまよって死んでたかもしれないし、アダレイだって……わたしが一人で出て行くなんて、できっこないよ。でも、夢を見たっていいでしょ」
タリアは吐き捨てるように言うと、うんざりしたような顔で「じゃあね」と言い、わたしを置き去りに走って帰ってしまいました。
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