第2話「不完全相互理解」

「え……」

「……」

「お、覚えていないんですか……?」

「あの、覚えていないと言いますか――」

「貴方がエヴァン・ナイトレイということも、部下である私の事も覚えていないんですか!?」

「ひぇ」


 襟首を掴む勢いで声を荒げた女性に、ジュリエッタは枕を抱きしめてか細い悲鳴を上げた。しかし相手はそれどころではないようで、喜色満面だった顔色をすっかり青ざめさせて言葉を重ねる。


「わ、私です! ユーファ・サルワーです! 貴方の右腕の……!」

「も、申し訳ありません。し、知らないのです……」

「そんな……!」


 理解不能な状況にいるジュリエッタよりも絶望した表情をした女性――ユーファにジュリエッタはこんな状況であるというのに罪悪感に駆られた。どうやら、彼女はこの身体の人物――エヴァン・ナイトレイという人物の部下だったらしい。こんな身なりなのに定職についていたのですね……と若干失礼な事を思いつつ、ジュリエッタはなんと口を開いていいか迷っていた。

 ジュリエッタは『エヴァン』という人物ではないし、そんな人物は知らない。死んだと思ったら、突如この身体で目が覚めたのだ。だから、覚えていないというのは間違っている。そもそも『知らない』のだ。

 しかし、この状況でそれを言ったところで混乱しているらしい女性に通じるかどうか。いや、それ以前に彼女に話が通じたとしてを言ってもいいのか。

 ジュリエッタは仮にも一国の姫という立場だ。それに何より、戦場では魔術を使用し、勇者と並び一大戦力となっていた――はずだ。もし、ここがトリム王国の何処かならいざ知らず、敵国メアートであったならば、ジュリエッタと知られればただではすまないだろう。

 まずは、状況を把握しなければ。


「あの、それでここはどこ――」

「待っていてください! お医者さんを呼んできますから!!!」


 しかしジュリエッタが発した言葉は、数倍大きな声色によりかき消されたのだった。



「本当に、記憶が無いんですね……」

「はぁ……」


 ユーファが連れてきた医者だという男性に、ジュリエッタは身体を調べられ、いくつかの質問をされた。それに素直に答えていくと医者は沈痛そうな面持ちで首を横に振っていた。私は死ぬのですか? 既に一度死んでいるのに……。などと思っていれば、ユーファは男性に退室してもらうように計らい、そしてどこから引っ張り出してきた椅子に座って暗い顔でそう言った。

 問いには素直に答えたものの、かといってまだ警戒しているジュリエッタは洗いざらいを喋ったわけではない。己がジュリエッタ・トリスメギストスであると認識している事実は告げずにいた。

 しかし、ここまで辛そうだと罪悪感が頭をもたげる。だが、仕方が無い。これも戦争なのだ。


「それで、ここはどこなのでしょうか。その、申し訳ありません。色々と、教えていただきたいのですが」

「そ、そうですね! そうだ。エヴァンさんは記憶を失って不安なんだ、私がしっかりしないと……」


 大きな返事をしたと思えば、ブツブツと独り言をしゃべり出したユーファに不安に駆られる。彼女もまだ若い、おそらく二十代前半だろう。上司が記憶喪失となったら、それは混乱するだろう。


「えぇと、そうですね。とりあえず、ここはケントルトです」

「けん、とると?」


 聞いたこともない名前だった。ジュリエッタがたどたどしく繰り返すと、ユーファはハッとした表情をした後に焦ったように言葉を重ねた。


「ユーピテルの中央都市、ケントルトですっ。あ、あの、それも、覚えていませんか?」

「申し訳ありません……」


 ユーピテル。聞いたことのない地名だ。似た名に、ユピテル教というトリム王国の国教があったが、国や地名としてはそのような名前に覚えはなかった。

 あまりにもユーファが悲しげな顔をするので、ジュリエッタは覚えていないという代わりに謝罪を零す。僅かな沈黙後、首を大きく左右に振ったユーファは拳を握って口を開いた。

「大丈夫です! 私が、私がエヴァンさんのこと、助けますから!!」


 先ほどまでとは打って変わって、ギラギラとした決意が見えるような瞳にジュリエッタは思わず目を瞬かせる。最初の様子からなんとなく思っていたが、どうやら『エヴァン・ナイトレイ』は部下である彼女から大層慕われているようだった。



 ちょっと待っていてくださいね! と言い、了承の言葉も聞かずに飛び出してしまった彼女の背中を見送って少し後、紙を丸めた筒を持って大急ぎで戻ってきた彼女は、ベッドの上にその紙を広げてみせた。

 茶色い用紙に描かれたそれは、描かれているものから推察するに地図のようだった。何より見慣れた大陸の形が――少し、異なる部分もあるが――載っているのだ。

 トリム王国と敵国メアート。しかし、なぜかトリム王国には二本の線が入っており、メアートとの国教の境目に見慣れぬ円が描かれている。


「見てください。この部分がユーピテル、そしてケントルトはここにあります」


 ユーファの指が迷いなく一つの地点を指し示す。ジュリエッタは呆気にとられた。


「――ま、待ってください! そ、そこは、あの、トリム王国では……?」


 口に出すかどうか迷ったが、しかし聞かなければならなかった。なぜなら、ユーファの指先が示した場所はだったのだ。

 トリム王国は巨大な大陸の中で、その半分以上の国土を持つ大国だった。古くはいくつかの国があったらしいが、それをトリム王国が統一し、強国を作り上げたのだ。そして、同じ大陸に存在するのはメアートだけであった。そのはずだ。

 だというのに、なぜこの地図ではそうなっていないのか。ユーファは当然のように別の国の名を言うのか。

 ユーファは目を丸くしたかと思えば、表情に僅かな喜色を浮かべた。


「トリム王国って七百年前に存在していた国のこと、でしたよね! 良かった、覚えていることもあるんですね!」

「――な、七百年、前の、国ですか?」

「はい!!」


 信じがたい内容に、ジュリエッタが信じたくない想いで確認の言葉を投げたが、一切の躊躇なくユーファが断言する。絶句して言葉も出ないジュリエッタに、記憶が混乱しているのだろうとユーファは完全なる厚意で詳細な説明を重ねた。


「貴方は博識でしたから、その記憶が混ざってしまっているんだと思います。トリム王国は紀元元年、千年戦争と呼ばれるメアートとの戦いで敗れました。といっても、終結は国家間の争いの結末ではなかったようですが。そのため、国土を荒らされることはなかったようなのですが、人口の半分以上が亡くなったため大混乱がおき、国内で六百年ほど争いが絶えませんでした。学校で教わったんですが、色々と複雑だったのでここは置いておいて……。

 結果的に、かつてトリム王国と呼ばれた土地は『ユーピテル』と『ウエシル宗教国』『コウ』と呼ばれる三つの国となり落ち着きました。ちょっと前までウエシルと皇との間に小競り合いなどもあったのですが、今ではトリル同盟を結び、嘗ての同じ国同士協力しているんです。そして! ここはその三国の中でも一番栄えているユーピテルの中央都市、そして王都のケントルトです!!」


 ジュリエッタは宙に浮いているような気分だった。

 そう、重力のない世界で寄る辺もなく空に浮いているような、全ての事象がジュリエッタからかけ離れていくような、そんな感覚である。

 満天の星空の中に一つの塵となって消えていく、無力感とも虚無感とも言えない気持ち。


 ――ダメよ、ジュリエッタ。現実を見なさい。


 至極真っ当な意見が脳内から聞こえてきたが、ジュリエッタはその内心の声に返す気力も無かった。

 見知らぬ老いた男性の身体で目を覚ましたら、七百年後の世界。しかも必死で勇者と共に戦ったというのに、祖国の人口の半分が亡くなったと聞かされ、愛した祖国の名は歴史の一つとして刻まれるばかり。


「ということで――あっ、す、すみません! 急にたくさん喋ってしまったので、混乱しましたよね……?」


 目の前の可憐な女性は気遣うようにそう語りかけてきてくれる。

 ジュリエッタは泣きたかった。泣いてしまいたかった。だが、彼女はどうやら部下であり、慕ってくれている。記憶喪失になったということになっているジュリエッタにこんなにも親身になってくれている。そんな彼女の前で取り乱し、泣き出すことはジュリエッタは出来なかった。あとひげ面の老いた男性が号泣をしている姿はあまり想像したくなかった。

 ジュリエッタは全て飲み下した。そして大きく一つ息を吐くと、地図に描いてある円を随分太くなった指で指し示した。

 それはユーピテルとメアート――国名が七百年前のままだったら、だが――の国境に跨がるように存在していた。その丸は、ジュリエッタが生きていた頃は存在しなかった。メアート側に押されていた戦線を押し返し、丁度このあたりまでやってきていたはずだった。そしてここには、巨大な山脈が存在していた。雲を突き抜けるほどの標高。しかし実りが多い、恵まれた山々だ。


「この円はなんなのでしょうか?」

「これはドラゴンの湖ドラゴン・ラクスです。先ほどの千年戦争終結の原因で出来た湖、という伝説があります」

ドラゴンの湖ドラゴン・ラクス、というと、ドラゴンが関係あるのですか?」


 ドラゴン――それは空想上の生物と言われている。ジュリエッタが幼い頃に読んだ童話の中に出てきて、天使に倒されていた。そういう類いの物だ。世界に跋扈する魔獣よりも凶悪で、凶暴で、かつて天使によって討伐された、そういう存在だ。

 ユーファは「伝説ですけどね」と苦笑いをし、続けた。


「『ドラゴンの咆哮』がこの湖があった土地に直撃して、山や土地が削れ、大きなクレーターになったそうです。そしてその衝撃で人々が大勢亡くなって、周囲の土地にいた人々も亡くなったと伝えられています。そして、出来たクレーターに水が溜まって湖になったとか」

「ドラゴンの咆哮……」

「はい。なんでもドラゴンが放った魔法とかなんとか……。詳しくは伝わっていないんです」


 七百年も前のこと。詳細が不明なのも仕方が無いかも知れない。それに、当時その場にいて死んだジュリエッタにも詳しいことは分からないのだ。


 ――一瞬だった。山が光ったと思うと、巨大な光の柱が空へと登った。そして、その瞬間に全てが終わった。逃げる暇も、隠れる暇もない。ただ圧倒的な力を前に、人間は、魔獣は、文明は等しく破壊された。

 ジュリエッタが即死でなかったのは、類い希なる力を持つ勇者が庇ったからだ。しかし、その衝撃に勇者は身体の大半を失い、庇われたジュリエッタも瀕死となった。そして話を聞けば、被害は両国ともに出ており、人口の半分が失われる程だという。それならば、記録にも残っていないというのも納得できる。ジュリエッタの気持ちは差し置いて。


「でもメアートも凄いですよね。そんな混乱の後も、分裂せずに現在まで国として存在してますし」


 ――ダメですそれは納得できません。


「と、とと、トリル王国は滅亡したのに……?」

「はい。といっても、何度か分裂したみたいですけど、今はまた統一して『メアート』として存在していますね」

「~~~~~ッ、そッ、そうなのですねぇッ」


 納得できる出来ないの問題ではない。それが歴史なのだ。勝者が正義。自国が負けて祖国が歴史の塵となったとしても。それに、確かにメアートとは敵国として戦った。だがそれはその当時のことなのだ。七百年後であるらしい今に、そんな嘗ての事情を持ち込んだとしてどうなるのか。


 ――勇者様は、戦争を嫌っていました。戦っていない、平和な世ならいいではないですか。


「五十年前まではメアートとの戦争があったのですが、今は和平条約を結んでいますね」

「……五十年前」

「はい。メアート側からの侵攻で。まぁそのお陰でいがみ合っていた三国がトリル同盟を結ぶことが出来たんですが」

「……そうなのですね」


 一応は、平和な世。ということなのだろうか。


 ――いつになっても戦はなくならないのですね。


「えっと、場所については分かって貰えたでしょうか?」

「はい、ありがとうございます」


 ――歴史には納得できませんが。


 とは口に出さず、黙って頷く。伸び放題の髭が首元に当たって不愉快だった。ジュリエッタの心情を知らぬユーファは安堵したように笑みを浮かべる。


「では、えーっと、次は……え、エヴァン、さんのことについて話しますね!」


 ベッドに広げた地図を回収しながらユーファがそう言うが、何故か名前の部分でつっかえる。先ほどは普通に言っていたのに。とジュリエッタが疑問に思っていれば、ユーファがコホンと一つ咳をして、語り出した。


「エヴァンさんはこの国、ユーピテル騎士団の騎士として働いています」

「騎士、ですか」

「はい。そして私も騎士として働いています。エヴァンさんの部下なんですよ!」


 騎士――それは勿論、ジュリエッタも知っている。戦場に出ていた兵達の中で、各地の貴族から集められた精鋭は騎士と呼ばれていた。ということは、この女性も戦場で戦うのだろうか――。と思案が頭を過りつつも黙って頷く。しかし、この『エヴァン』も騎士だったとは。浮浪者でも犯罪者でもなかったとは、驚きだった。

 誇るように胸を叩いて部下であると宣言したユーファだったが、直ぐにその肩を落としてしまった。


「二十日前、私たちはドラゴンの湖ドラゴンラクス近くに赴きました。魔獣討伐のためです」

「魔獣討伐、ですか」

「はい。騎士の仕事は、盗賊の討伐や王族の護衛などがありますが、魔獣討伐が一番大事な職務です。凶暴な魔獣を打ち倒すんです! ただ……」


 強まった語気が直ぐに落ち込んでしまう。なんとなくその先がジュリエッタにも分かった気がした。

 魔獣とは、各地に存在する強力な生物のことである。ものによっては巨木ほどある全長に鋭い牙や角を持ち、生物なら見境無く殺し、暴れ回る。大人しい個体もいるが、そのほとんどは人すらも餌食にするようなものばかりだ。そして厄介なことに魔術さえも扱う。火を吐き、風を起こし、並大抵の兵士では叶わない。だからこそ騎士達が討伐に向かうのだろう。そして――犠牲なしで終わる事も無い。


「――強力な魔獣が多く生息していました。私たちは連携し、強大な魔獣たちを何匹も倒しました。けど、エヴァンさんが村にいた子供を助けるために重傷を負って……」

「子供、ですか」

「はい。七歳ほどの男の子です。幸い、男の子の方は無傷でしたが……。それから、エヴァンさんを連れて帰り、治療を施しました。どうにか一命を取り留めたのですが、目を覚まさなくて」

「それで二十日後の今日、ようやく目を覚ましたと」

「そうです!! もう、本当に、良かった……!」


 勢いよく顔を上げたかと思えば、ユーファの瞳は、涙で潤んでいた。心の底から生還を喜んでくれている。そうはいってもエヴァンではないため、ジュリエッタは複雑な気持ちになりながらも、僅かに笑みを浮かべることで応える。


「その、他の騎士の方は無事だったのですか?」

「……はい。怪我を負った者はいましたが、みんな無事です。貴方だけですよ、死にかけていたのは。もう、生死を彷徨ったのに他の皆の心配なんて」


 困ったように笑うユーファを見て、一応はという自覚が足りなかったなと自省する。


「ただ、近隣の村は到着したときには全滅していました。エヴァンさんが助けた男の子、リウ君だけが生き残りです」

「一人だけ……」

「はい。ケントルトの中心にある教会で保護されて過ごしています。エヴァンさんも、体調が良くなったら行ってあげてください。会いたがっていましたから」


 魔獣の被害はジュリエッタとして旅をしていた時も甚大だった。戦火ではなく、魔獣によって滅びた村々も見てきたし、厚い壁に覆われた城塞都市でさえも時には魔獣の餌食となっていた。だからというわけではないが、一人でも生きているのは本当に良かったと思う。



「でも、本当に目を覚まして良かったです! きっとこれも、のご加護があったからですね!」


 ジュリエッタはもの凄く噎せた。

 それはもう盛大に噎せた。飲み物などを飲んでいた訳でもないのに嗚咽をする勢いで噎せまくった。

 突然、猛烈に咳き込み始めたジュリエッタにユーファが驚き背中をさする。優しさに心が温まるがそれどころでなかった。


 ――じゅ、ジュリエッタ様の、ご加護?


「じゅ、ゴホッ、ジュリエッタ、ゲホッ! とはッ、な、なんですッウエッ、かッ……!?」

「そ、そんなことよりも水を持ってきますから!」

「それはッ! 後で、ゲホッ、いいですから……!!」


 胃液を吐き出さんばかりにむせ返っているジュリエッタに、心配したユーファが飲み物を持ってこようと席を立つ。それをその細い手首を掴んで制止する。ひょわ! と珍しい悲鳴を上げたユーファが、少しの逡巡の後、再び席に座った。

 首元を抑えながら、ユーファを見上げる。咳き込んだせいで未だに全快していないらしい傷が痛むが、そんなことは些細なことだった。

 困り切った表情をしたユーファは、ええと。と言葉を濁しながら話し出す。


「『ジュリエッタ様』というのは、この国で信仰されている神様の一柱です。先ほども話した千年戦争でトリル王国を救うために旅をしたと謳われている、ジュリエッタ姫を神格化した存在なんです。生涯結婚はせずに国に命を捧げたとして『処女神』としても信仰されていますね」


 ――なん、ですかそれは。


 別に、嘘ではない。確かにジュリエッタは結婚はしなかった。勇者に旅に誘われた十六の頃は相手もまだいなかったし、それから死ぬまでずっと戦場で結婚する暇などなかった。


 でも、こんなのってないでしょう。

 意味も分からず死んだと思ったら老いた男性の姿になっていて、しかも七百年後の未来。愛した祖国は歴史の塵になり、しかも嘗ての自分は神として崇められていて――更に処女神なんて言われている。


「あ」

「あ?」

「あんまり、です……」


 目の前が真っ暗になった。比喩ではなく、ジュリエッタの視界は黒く塗りつぶされていく。そしてそのまま意識が薄れ、霞み――ベッドへと倒れ込んだ。

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