処女神の輪廻

ミシタカガリ

第1話「ジュリエッタ姫の輪廻」


 ――いいだろう。約定だ。

 ――だが貴様が■■■とき

 ――それは世界の終わりである。


 男とも、女ともとれない声。老若も理解できない不可思議な声は、ジュリエッタには理解の出来ないことを語り消えていった。しかしそれが目覚ましとなり、ジュリエッタは意識を覚醒させる。

 掠れる記憶の中で、直前にあった出来事を火花が弾けるように思い出し、その場から跳ねるように飛び起きた。


「ッ!?」


 途端、頭が割れるかと思われるほどの頭痛と身体の節々の鈍い痛み。ぼやけ、揺れる視界に苦心しつつ、それでもどうにかジュリエッタは上半身を起こしたまま周囲の状況を探ろうと身体を動かす。

 ジュリエッタが居たのは、どうやら簡素なベッドの上のようだった。


 ――生きてる? 私、生きているの?


 目を覚ます前の出来事が脳裏に過る。生きているはずがない状況だった。けれど、ジュリエッタの身体は今ここにある。震える手で、周囲に手を伸ばせば固い何かに当たった。

 ようやく物の輪郭が見えるようになってきた視線で、その先を見やる。ベッドの横に備え付けられたサイドテーブルの上に、金属製の桶のようなものが置いてあった。窓の光を反射して、桶の中の水面が揺れて輝いている。

 猛烈に喉が渇いていたジュリエッタは、恐る恐る、その桶に近づいた。ベッドの直ぐ近くにある窓から降り注ぐ日の光によって輝く水面は、シンと静まりかえっている。ジュリエッタはそこへ手を伸ばして――水面に映り込む己を見た。

 ジュリエッタ――金色の髪に、透き通るような瞳。二十歳というまだ若々しい彼女の姿は――何日も放置し、茶色い髭が伸び放題になった不潔な老年男性の姿へと変貌していた。


 ――――――――


『ジュリエッタ・トリスメギストス』

 それが、トリム王国に生まれた彼女の名前だった。

 トリム暦千年。隣国メアートとの大戦が開始された。メアートは長年大陸の覇を競い合う隣国同士、以前の戦争から数十年の時を経て、再び始まった戦争だった。トリム王国の王、アーサー・トリスメギストスは徹底抗戦を選択、戦線は広がり続けていった。

 ジュリエッタは王の前妻の娘であった。魔術を得意とし、神からの贈り物であるとされる『魔法』さえも扱える天才魔術師。しかし、女であり前妻の娘である彼女は誰からも必要とされていなかった。

 そんな彼女に転機が訪れた。戦争が激化し、トリム王国の王都が奪取されかけたその時期――『勇者』が現れたのだ。そして勇者はジュリエッタ姫のその類い希なる魔術の腕を見初め、共に国土奪還の為に戦ってくれないかと願った。

 ジュリエッタ姫はそれを承諾し、齢十六の頃、勇者とともに戦火の中を旅に出た。四年にわたる旅路の中、勇者らの活躍により士気は向上し、戦線を押し返していく。

 しかし――未曾有のにより、戦線に参加していた敵味方問わず、兵士達は皆死んだ。前線に立っていた、勇者と姫も共に。



 ――焼けただれる皮膚、吹き飛んだ片腕。周囲には荒涼とした大地が広がり、生きている生命は目の前の男一人しかいない。

 ジュリエッタは、血か、それとも生命の限界か、赤く染まる情景を生き残った片目で辛うじて認識していた。勇者によって庇われ、辛くも息をしていたジュリエッタも、あともう一つ息を吐けば死ぬような身体だった。

 それでも助けなければならなかった。手段が限られていて、助けられないかもしれなくとも、手を伸ばさなければならなかった。それが、彼女がその場にいる理由だったから。彼女がこの戦場にやってきた意味だったから。

 美しかった柔肌は吹き飛ばされた砂礫されきや熱によって傷つき、溶け、見る影もなかった。それでも、辛うじて原型を留めたその腕を必死で伸ばす。

 彼女だけが、あの身体の半分もなくなってしまった勇者を救える唯一の人物かもしれなかったから。


「――姫」


 魔法はかからなかった。神より賜れし人知を超えた術は、しかし彼を助けることは出来ない。

 頭の骨が見える勇者が、血に染まった唇を僅かに持ち上げた。

 ジュリエッタの視界が赤く染まり、何も認識できなくなる。目が潰れたのではない、涙に溢れ、ぼやけ、全てを水に浸してしまったからだった。

 助けられなかった――決して助からない勇者の声はしかし、とても柔らかかった。励ますように、慰めるように、もう良いのだと許すように。

 ジュリエッタの指先が、勇者の手の平へと触れる。指が幾つも欠けている勇者の手は、しかしほんの僅かにジュリエッタの肌を握り返した。

 物語は悲劇で終わる、努力に対する報いなどない。人知を超えた人々にも平等に死は訪れる、幸福な終わりなど存在しない。それでも――。


 ――そこで、私にとっての短い旅は終わった。終わった、はずだった。


 ――――――――


「ゆ、夢!? いや、そうですよね。しっかり死んだ記憶があるのですから――」


 ジュリエッタは安堵した。そうだ、己が死んでいないわけがない。突然の出来事に死の間際は正直、何が起こったか分からなかった。しかしそれでも死んだことは確かなのだ。

 なので当然、その後に目を覚ましたら、全く見覚えのない、髭がもの凄いことになっている顔に皺のある貧民窟にいる犯罪者のような風体のおじさんの姿になっているわけがない。

 わけがない。というのに、ジュリエッタが出した声は滅茶苦茶低かった。しかも勇者よりも低い声色だった。

 再びベッドの上で飛び起きたジュリエッタは、突然喋ったせいかヒリヒリと痛む喉を抑えつつ、恐る恐る周囲を見回した。そこは木造作りの個室のようで扉が一つある。そしてジュリエッタはベッドに寝かされている。ベッドはとても清潔なようで、仮にも水面に浮かんだ男性が使用して良い物とは思えない。

 質素な作りではあったものの、下手をすれば宮廷にあっても可笑しくないような清潔さと滑らかな生地の触り心地だ。

 ベッドの隣にはサイドテーブル。これも先ほどと同じである。金属の桶も同様に存在している。ベッドから飛び起きた衝撃が残っているのか、僅かに水面が揺れている。

 ジュリエッタはゆうっくりと、桶を再びのぞき込む。僅かに頭部の先端が映る。茶色のボサボサの髪が映った。ジュリエッタは桶を見るのをやめた。


「どうなっているのですか、これは……!」


 ジュリエッタは悲鳴を上げた。理解できない出来事に、頭が酷く痛み、他の痛みをかき消してしまうほどだった。悲嘆にくれようと顔に押しつけた手の平は硬く、顔にまるで地面に生える雑草のように縦横無尽に生えている髭立ちを直で感じ、更なる悲鳴を上げることとなった。


「や、やだ。もう無理、勇者様助けて……」


 ジュリエッタは半泣きであった。といっても傍目から見れば、浮浪者の風体をした男が涙目になっているだけなのだが、幸いながらそれを見る者はいなかった。

 この時点ではまだ。


 扉のドアノブがカチャリと回る。ジュリエッタはベッドの上で魚のように飛び跳ね、ブリキのおもちゃのように視線を扉へと向けた。


「お加減はいかがですか、だ――め、目が覚めたんですね!!」


 パッと花開くようだった。静かな声色は、ジュリエッタを見た瞬間に明るさを取り戻し、弾けるような笑みは待ちきれなかった期待を含んでいる。

 二十歳になるジュリエッタより、少しだけ年上だろうか。赤茶色の長い髪をポニーテールにし、動きやすそうなワンピースを着た若い女性は歓喜の表情でジュリエッタへと駆け寄ってくる。

 ――だ、誰なのですか!? こ、こっちに来ないでくださいィ!!

 対してジュリエッタは大混乱していた。悲鳴を上げかけた声は、しかし恐怖や不安によって喉奥へと押し込められてしまう。身動き一つとれずにただ女性が接近してくるのを黙って待っていることしかできなかった。いや、思わず枕元にあった枕を抱えていたが、女性はそんなことは全く気にならなかったようだ。


「良かったです! 本当に死にかけていたんですよ! それに状態は回復していて目を覚ましてもいい頃だというのに起きなくて、お医者さんから『頭を強く打ち付けているから影響があるのかも』なんて言われて、私本当にどうしたらいいかと……!」

「ひ、あ、あの……」

「はい!! なんでしょう!」


 女性の声は大きかった。それはそれは大きかった。

 遠くまで通る声というのだろうか。高すぎず、低すぎない耳に優しい声だったが、眼前で叫ばれれば耳も死ぬし、怯えきっているジュリエッタには麗しい女性というよりも恐ろしい魔獣のように映っていた。

 顔面蒼白になりながらも、それでも聞いておかなければならない。


「あの……貴方は誰で、私は誰で、ここはどこなのでしょうか……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る