沈黙に積雪
中田もな
Trei
――独裁者国家め、地獄に落ちろ! 俺たちのルーマニアを返せ!
僕のお父さんはそう言いながら、秘密警察に連れて行かれた。その日から、僕は孤児になって、彼と出会った。
ふわふわと落ちる雪が、彼の栗色の髪にかかる。僕がそっと粒を払うと、彼は「ありがとう」と言ってにこっと笑った。
「ねぇねぇ、次はどこに行こうか」
彼は落ち着いた表情で、僕に次の行き先を尋ねた。真っ白な世界の中を、僕たちは静かに進む。早足になったり、ゆっくりになったり。僕と彼は何も言わずに、雪の上を歩き続けた。
「僕、少し疲れたな。あそこのベンチで、休憩しようよ」
しばらくすると、彼はぴたっと足を止めて、緑のベンチを指差した。僕はなるべく歩いた方がいいと思ったけれど、彼がどうしてもと言うので、仕方なく腰を下ろした。
「見て、これ。孤児院の机から、盗んできちゃった」
彼はにやりと笑いながら、かじかんだ手でポケットを漁った。薄っぺらいカードが一枚、ひょっこりと顔を見せる。
「これ、タロットカードって言うんだって。職員のおばさんたち、これで占いをするらしいよ」
食べ物を期待していた僕は、ただのカードを見てがっかりした。大嫌いな孤児院を、やっとこさ抜け出したのはいいものの、お腹が空いて倒れそうだったのだ。
「……ごめんね、食べ物じゃなくて。僕も、お腹空いたよ」
彼がしゅんとしたのを見て、僕は「気にしないで」と首を振った。逃げ出そうと言ったのは、僕の方だったから。
「僕、このカード、気に入ったんだ。金色の月が、描かれてるから」
縦に長いカードには、黄金の月が輝いている。彼はよく夜空を見上げていたから、月が好きなのもすぐに納得した。
「ねぇねぇ、知ってる? 不死の薬も、失われた理性も、月の国にあるんだって」
彼はそう言いながら、月のカードを空にかざした。灰色に包まれて何も見えない、一切の虚空の中に。
「月には願いもあるけど、恐ろしい狂気もあるよね。あの美しい表面には、色んなものが詰まっているんだ……」
タロットに描かれた黄金の月は、平穏とも苦悶とも取れるような表情で、じっと宙に浮かんでいる。それは何も話さずとも、僕たちに色々なことを教えてくれた。
「……ソ連は、いつかバラバラになるよ」
静かな声で、彼はつぶやく。その目には、果たして何が映っているのだろうか。
「君も僕も、誰もかれも、見えない線でぐちゃぐちゃになる。月の国とは違って、僕らの国は『永遠』じゃないんだ」
僕は、とても悲しくなった。いつか、必ず、僕たちは引き裂かれるんだ。
「――僕は、月の国に行きたい」
彼は青い目を伏せて、雪の上に雫を落とした。彼が涙を流す姿を、僕は初めて見た気がする。
「月の国に行けば、僕たちは自由に暮らせる。大人にも、世界にも、何にも邪魔されずに、ずっと楽しく暮らせるんだよ……」
……僕だって、泣きたい気持ちでいっぱいだった。秘密警察が僕たちを追っているのが、怖くてこわくて仕方がなかった。
「僕たち、何も、間違ってないよね……! 何も、なにも、悪くないよね……!」
彼は僕に抱きついて、声をあげて泣いた。僕も彼の肩をうずめて、小さく嗚咽を漏らした。しとしとと降る雪が、僕たちの声を吸い込んでいく。
――どんなに頑張っても、逃げ切れやしないよ。
そんなこと、最初から分かっていた。でも僕は、彼と一緒に逃げたかった。彼が秘密警察に目をつけられていると知ったときから、ずっと逃げ出したかった。
――「優秀な子ども」は、国のために働けるんだ。あの子はね、それに選ばれたんだよ。
孤児院の職員さんは、彼を指差してこう言った。彼が国のために働けるなんて、僕も最初は誇らしかった。でも、本当はそうじゃなかった。孤児院の「優秀な子ども」は、秘密警察に連れて行かれて、そして――。
――秘密警察にされるんだよ。
「いたぞ! 捕まえろ!」
……ああ、もう駄目だ。僕も彼も、おしまいだ。僕たちは何も言わずに、大人たちの足音を聞いた。
沈黙に積雪 中田もな @Nakata-Mona
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