雨の降る街 6 雲海
サクは夜勤交代のため、レンの待つ工場へと向かっていた。
あの台風が通過したあとも、雨は飽きることなく降り続けていた。夜道にできた水溜りも、乾くひまもないようだった。
冷えた風が流れる通りを、サクは一人進んでゆく。
道の端には、ぽつりぽつりと、表情の見えない人影がある。みな何も言わずに、静かに雨に打たれている。サクはそばを過ぎる時、さっと下を向いて、視線を外したまま歩いた。
しかし角を曲がった時、あの黒いスカートの女性と、ぶつかりそうになってしまった。喪服を思わせる彼女の服が、闇夜の暗さと同じ色合いだったからだ。
目の前で足を止めたサクの顔に、女性はぱっと、見開いた目を向けた。
少し腫れたような赤い目で、サクはじっと見つめられ、足を前に出せないでいると、
「あの……」と、か細い声が、雨の間から聞こえてきた。
「工場のかたでしょう? 時々、レンさんと一緒にいるところを、見たことが……」
サクは小さく頷いた。すると女性は、安心したように微笑んで、
「いつも、ありがとう……」
と、お礼の言葉を口にした。
サクはゆっくり視線を下ろし、もう一度だけ頷いてから、また通りを歩き出した。
雨と、風と、彼女の声の残響が、サクの耳から離れなかった。
工場の階段は、いつもと同じように、しっとりと濡れていた。
段差の幅にも、足は慣れているはずだった。
先ほど急に褒められて、浮足立っていたのだろうか。それにしても、その時のサクは、本当に悲惨な転び方をした。
胴体と足が逆方向にねじれ、背中から後ろへ倒れ込みながら、両腕は何かを掴もうと、大きく宙を舞っていた。
階段のふちに、何度も体をぶつけ、転げ落ちてゆくその短い間に、大げさではなく、死を意識した。
勢いをつけて建物から表へと、サクの体は吐き出された。
上向きに寝転んだ状態で、動くこともできず、自分に向かって垂直に落ちてくる雨を、ただぼう然と見上げていた。
死にたくない、という思いが、突然湧き上がってきた。
こんなところで死にたくない。ここで終わりになんかしたくない。僕にはまだ、やり残したことがある。僕の未来は、続いてゆくんだ。
そんな気持ちとは裏腹に、じわじわと体中に、打ちつけた痛みが襲ってきた。
サクは痛みから意識をそらすように、雨をぐっと見つめ続けた。すると――。
落ちてくる雨の向こうがわに、黒い線のようなものが、何本も横断していることに気がついた。間隔をあけて、横に途切れることなく延びている。
暗闇の中で、目が線の輪郭のほうへ、ピントを合わせる。あれは、パイプだ。サクの見慣れた配管だった。雨は、そこから降っている。配管に小さくあいた、無数の穴から……。
次の瞬間、サクの疑問は吹っ飛んだ。
雨が降り続ける理由。それは、ハンドルから送られる水のせい。街中の空に、張り巡らされた管を通って、雨のように流れ落ちる。つまり雨を降らせていたのは、この自分だ。
「なんだ……そんなことか……」
サクの口から、思わず声が漏れていた。
この街に来て、初めて出した声だった。
どうして気づかなかったんだろう。街から出ている、蒸気や湯気のもやのせいか。それとも……ずっと下を向いたまま、生きていたせいだろうか……。
(僕は、生きたかったんだ。また前を向いて、明日へ……)
サクは、目元が熱くなってくる感覚を覚えた。心臓がどくどくと、早鐘を打つ。
雨だと思っていたものが、頬を流れる。
サクは叫んだ。
目の端から、水が溢れた。それが雨ではなく涙だと、今のサクにははっきりと分かった。
「さーく」、とレンの声がした。叫び声を聞きつけたレンが、サクの近くにしゃがみ込み、サクに優しく呼びかけていた。
レンは片手で、サクの頭を撫でながら、
「泣いて強くなれ」
と一言、小さいけれど、力強い声で言った。
サクは全身に力を込めて、体を起した。水分を含んだ体は、思った以上に重たかった。だが、打ち身の痛みを無視してでも、レンに聞いておきたいことがあった。
「教えてほしい。あの配管は、どうして……」
「来いよ。上から見りゃ分かる」
レンは低い声で言うと、サクを連れて階段を上がった。上がっている間、レンは何度も振り返り、サクがついて来ているかどうか、確かめた。
ビルの屋上に出た。風は吹いているが、雨はやんでいる。いや、最初から降ってはいなかった。
月明かりと無数の星たちが、眼下を照らした。配管がずらりと並び、水を下界に降りまいている。蒸気のようなもやが、まるで白い雲海のように、街全体をおおっていた。
「どうして……」
サクがもう一度問いかけると、レンは後ろ頭をかいてから、落ち着いた声で話し始めた。
「この辺りはもともと、雨量の多い土地だった。周りは山になっていて、雨水は地下の貯水槽という、大きなタンクに運ばれる。それをろ過して、吸い上げるのさ。で、パイプに流して、また繰り返し……循環させる」
「……仕組みのことを、聞いているんじゃないんだよ……」
サクが小声で訴えると、レンは吐息と一緒に、「あぁ……そうか」と言って、頷いた。
「雨については、この街に住む人、一人ひとりに、それぞれの答えがあるんだ。俺たちがしていることはな……泣きたい時に、泣ける場所を用意してやること。ここでハンドルを回している理由は、そのためだけにあるんだよ」
レンは広がる雲海を見つめてから、顔を上げて、空を見た。目の中に、星の光が瞬いているように見えた。
「もう行こう。ここは俺には、美しすぎる……」
そっと呟いて、レンは屋上から階段へ向かった。サクはその背中に、声をかけて引き止めた。
「僕はもう、ハンドルは回せない」
レンは振り返らずに足を止めた。そして、
「どの道を進むのか、お前は選ぶことができる」
そう言い放って、また歩き続けた。
サクは、しばらくそこに立ち尽くしていたが、やはりレンを追い、また階段へと向かって行った。
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