雨の降る街 4 社長
病室の寝台で眠る父の姿は、作り物の人形のように思えた。
人形は二度と立ち上がることはない、魂の抜け殻だった。
だが夢の中では、何度でも立ち上がり、サクの目をきつく睨んで、こう叫ぶのだ。
「許さんぞ、このバカ者め!」
サクは砂嵐のような音に、目を覚ました。
雨。
絶え間なく続くその音の向こうから、「ねえ!」という、高い声が飛んできた。
ソファから起き上がると、サクは目をこすりながら、声のほうへ進んで行った。
「ねえ、いるんでしょう? おはよう!」
玄関口に、赤毛の少女が立っていた。短い毛先から丸い水滴を落としつつ、サクの顔に目を向ける。
「あんたがサクくん? あたし、レンから頼まれて、配達に来たんだけど」
少女は背負っていたリュックから、二つの包みを取り出した。
「蛙堂のホノカです。お代はレンから、先払いで」
ポケットからレシートを取り出し、包みの上にのせて、サクに差し出した。雨に濡れて、包みに広がるシミを見かね、サクはそれを受け取った。
「一つはあんたに、もう一つは工場に持ってこいって、レンに言われてたんだけど、サクくんに持たせたっていいわよね? どうせ工場へ行くんだから」
当然のように言うホノカに対して、サクは丸い目をして、まばたきを繰り返すだけだった。
「あったかいうちに食べてよね、じゃあね」
ホノカはリュックを背負い直すと、くるりと向きを変え、走って行った。
リュックに描かれていた、カエルのイラストが、雨の街なかをジャンプしているように見えた。
サクはソファに座って、包みを広げた。
パンとバターの甘い香り。サンドウィッチ。
空腹の胃に詰め込むと、サクはもう一つの包みを手に、雨の道へ踏み出した。
配管を揺らす振動音に重なって、レンのかすれた小声が聞こえた。
片腕をハンドルに軽くかけ、椅子に浅く座って、ほぼ壁にもたれるような姿勢で。何を言っているのかと耳をすませば、英語の歌詞の歌だった。サクは知らない歌だった。
サクの足音に気がついて、レンは静かに振り返った。そのまま歌を口ずさみながら、優しい眼差しでサクを見る。
それから刺青の手を伸ばして開き、サクの差し出した包みを受け取る。
「行くなよ」
レンはあくびをしてから、言った。
「食べている間、代わってくれないか」
サクは配管の延びる壁を見上げた。まるで大きな動物が、規則正しく、寝息を立てているかのようだ。レンの子守歌が、そうさせていたのかもしれない。
レンが、どこからか椅子を引っ張り出してきて、そちらに座った。サクがハンドルの前に座ると、レンは、壁にかけていたタオルを、サクの濡れた頭にのせた。
「船のかじを取るように、右へ、左へ」
レンは言いながら、サンドウィッチを頬張った。
特に何かを言うでもなく、二人は時間が過ぎるままに身を任せた。
サクはハンドルを操りながら、呼吸を正した。
穏やかだった。ここには、自分を責める者はいない。亡くなった父の亡霊も、夢の中だけに彷徨っている。現実には、関与せず……。
(僕は自由になりたかったんだ)
サクはハンドルから手を離さず、レンにそっと語りかけようとして、口を開いた。
が、レンは両腕を胸の前で組み、首を傾けて、眠っていた。
シワのついた包み紙とレシートが、レンの膝からすべり落ちた。
「おお、いたのか」
ゴウは部屋に入ってくるなり、サクに短く声をかけ、すぐにレンを揺すり起こした。
「レン、外が霧のようだぞ。これじゃ泣けねえぜ」
「あぁ?」とレンが言って、目を開ける。
ゴウは「交代だ」とサクに言うと、席を奪った。
「レン、そうだ。そんなことより、大変なんだ。社長が来てるぞ。これからの方針について、話し合いだとよ」
「話し合い? 何をいまさら。過労働への給料値上げか? そんなの、どうでもいいことだ。俺は報酬なしでも、この仕事を続けるぜ。なあ、ゴウ!」
「はあ? 寝ぼけてんじゃねえ、俺は給料はいただくぜ」
レンの肩を叩いて、ゴウは笑った。
「立てよ、工場長。会議室で雇い主が待ってるぞ。ほらサク、この寝起きの男を、とっとと連れて行ってくれ」
レンは立ち上がり、首をポキリと鳴らしてから、サクについてくるよう、手招いた。
会議室は久しく使われていない様子で、カビのような、古い匂いが鼻をついた。
社長はホコリのつもった椅子には座らず、閉まった窓から表を見ていた。
きれいに横分けされた髪。細身で長身の体に、紺の縦じまが入ったスーツ。両手を腰にあて、眼下を確認するように見つめている。
レンとサクは、部屋に入ったところで立っていた。社長は気づいたようで向き直り、
「この仕事は好きか?」
と言った。レンが「はい」と、敬語を使う。二人は同年代のように見えたが、上下関係は厳しくある様子だった。
長方形のテーブルに、配管の設計図のような資料がのっている。社長はそちらに目を落とし、「私はどうかは分からない」と言った。
「すべては父の発案だった。私はそれを引き継いだだけだ。この街の人にとって、このパイプの流れは、本当に必要なものなのだろうか。金のことを心配しているのではない。私は、意味のないことはしたくない主義だ」
レンは立ったまま、しばらく社長の顔を見ていた。社長は図面から目を上げなかった。
「意味がないかどうかは」
レンがゆっくりと口を開いた。
「ここに住んでみたら、分かるんじゃないですか。きっと、あなたにも……泣きたくなる日も、あるでしょうし……」
社長はスーツの胸元を撫で、レンの顔に目をやった。レンは微笑みかけるような表情で、社長にこう付け加えた。
「この街には、いいクリーニング屋もありますよ。スーツに撥水加工を、ほどこされてみてはいかがです」
「レンくん」
社長は窓の外を、細目で見やった。
「きみが来た日のことを、思い出すよ。もう十年以上も前のことだ……父もまだ元気だった。きみなんて、ただの惨めな男にしか見えなかったのに……」
黒目をゆるやかに流し、社長はレンをとらえて、話し続ける。
「レン。この街中に配管を繋げるという、父の突拍子もない計画に、よく賛同してくれたね。なぜきみが立ち直れたのか……同じ街に住めば、私にも分かるものかな」
レンは微笑んだまま、答えなかった。
社長は会議室を出て行く際に、レンを探るような目つきで見つめ、囁くように言い残した。
「きみは強いな。私は、きみが泣いているところを、一度も見たことはないよ」
社長とすれ違う瞬間、レンの肩が震えたように、サクには見えた。
サクは、手の甲の刺青を、もう片方の手でぎゅっと握りしめている、レンに気づいた。
レンは社長の背中を見送りもせず、まっすぐと窓の外、流れる雨を、じっと見ていた。
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