雨の降る街 2 配管
湿ったスニーカーの長さをメジャーで測ると、同じサイズの長靴を、男は少年に手渡しながら言った。
「この街は、毎日雨が降る街だ。泣きたいやつしか住もうとしない。涙は、雨でカモフラージュできる。分かるか、サクちゃん。いつ泣いてもいいんだぜ」
少年は先ほど言われた通り、黙っていようと決めていた。それに、誰かとお喋りをしたいという気持ちもなかった。心がフタをして、閉じきっているような感覚。涙も、零れることはないはずだ。
「サク」と名付けられた少年と、名前も知らないその男は、雨が静かに降る中で、ビルから歩き、また違うビルへと移動した。サクは、髪についた雫を、頭を振って左右に飛ばした。
男は艶やかな髪を、慣れた手つきでオールバックにすると、後ろで束ねた。その仕草に、サクは自分にはない、男の色気のようなものを見た。男について歩いていると、自分はちっぽけなガキにしかすぎないのだと、誰にともなく、言われているような気さえした。
「階段、滑るから気をつけな」
濡れたブーツで歩きながら、男は振り返りもせず注意した。
ビルの階段を何段か上がり、二人は広い、工場のような部屋へやってきた。天井からぶら下がる、たくさんの蛍光灯が、暗い街に慣れていた目に、眩しく映った。
メーターやボタンの並ぶ、灰色の機械類。その間を進んだ先に、複雑に組まれた配管で、一面おおわれた壁があった。
壁全体が震えているような、絶え間のない振動音に包まれて、どっしりとした中年の男が、そばの椅子に腰掛けていた。つぎはぎだらけのGジャンに、太い体を押し込めている。
「誰だ、その小僧は。どこの馬の骨だ」
中年の男は振動に負けないよう、大きな声を飛ばしてきた。
「名前はサク。昨日拾った、新弟子だ。こいつにハンドルを任せよう」
サクは男たちの会話を、ただ突っ立ったまま聞いていた。中年の男の声には、怒りのような強さがあった。
「おい、ハンドルは血液を流す、街の心臓部だぞ。俺がやる。レン、お前は一人でも行けるだろ?」
(レン……か)と、サクはオールバックの男の背中を見ながら、名前を覚えた。レンも張り上げた声で言う。
「今日は四地区の、見回り点検の日だったよな。二手に分かれりゃ、移動距離も短くてすむ。俺は北側につくから、ゴウは南側から見てくれないか」
(Gジャンの男は、ゴウ……)
サクは、話の内容はまるで分からなかったが、男たちの名前は知ることができた。
「……まあ、四地区は広いから、二人で行くほうが効率はいいが」
ゴウが考えを言い終わる前に、レンが素早く話を締めた。
「決まった。さあサクちゃん、ハンドルさばきをゴウに教われ。俺は先に北へ向かう。じゃ、またあとで」
「忙しくなるぜ」
ゴウはレンとサクを交互に見やり、どちらにでもなくそう言った。
成り行きに従うほか、今のサクに道はなかった。
ゴウは壁の配管に取り付けられた、大きな鉄のハンドルを、サクの両手に握らせると、カチューシャのようなヘッドセットを、上からかぶせた。
「合図が来たら、言う通りに回せ」とだけ、ゴウはなんとも簡単な説明をした。サクの握ったハンドルを横から掴むと、右へ、左へと回してみせる。ハンドルは油をさしたばかりのように、なめらかに回転していた。
「レンの、人を見る目は確かだ」
耳に聞こえるだけの声量で、ゴウは前の壁に向かって、話した。
「今までにも、職のない人間を、何人か連れてきたことがある。みな、悲しみを抱えた、自分と同じようなやつだってな。だが、ちょいと訓練さえすりゃ、使いもんになるってわけだ。それは、そいつの自信にもなる。……ま、今日みたいに、初日からハンドルを任せる、ってのは初めてだが……」
ゴウはサクの横顔に目を向けると、「平気か?」と確認をした。サクは前の壁を見つめながら、一度だけ頷いた。
レンとゴウが、街の四地区という持ち場に着いたら、ヘッドセットに合図が送られる。サクは、自分がハンドルを回すことで、締めたり、緩めたりするという、妙な仕事を任せられたのだと、理解した。
「前のやつが退職したりで、手が足りてねえ。……定期的なメンテナンスの日に、あんたが来たのは、幸か不幸か?」
言うだけ言うと、謎を放って、ゴウもさっさと行ってしまった。
鉄のハンドルは、しっとりとして冷たい。
サクは、ゴウの座っていた椅子を引き寄せ、ハンドルの前に座って待った。立っても立たなくても、伸ばせばハンドルに手は届く。大きな円形のハンドル。
(街に血液を流す、心臓部……)、ゴウの言っていた言葉を、思い出した。
(……僕は……どうして今、ここに……)
考え始めようとした次の瞬間、ヘッドセットから、ノイズ混じりの声が流れてきた。
「スタンバイOK。サク、ハンドルを回せ。右に全開」
レンの声に促され、サクは座ったままハンドルを回した。壁を揺らしていた振動が、ハンドルを回すごとに、徐々に弱くなっていく。
何かが流れている。この配管に。入り組んだ、迷路のようなこの管に……。
音が止まった。
「サク、そのまま待機な」
窓もない、閉鎖的な室内で、サクはレンの声だけを聞いていた。
「ああ、やっぱり……。こっちはいいが、こっちはダメだな……四地区、三地区の間で、配管の詰まり……。老朽化の問題か……サビがひどいな。一度、これを取り外して…………固いな……」
「着いたぜ、レン」
ヘッドセットに、ゴウの声も混ざってきた。
「先に南側からチェックしとくか? レン、そこんとこは、細い小路だろ。めったに人も通らねえ。このまま、修理しなくても……」
「いや、ダメだ。ここだけないと不自然になっちまう。俺はこの街を、ニセモノなんかにしておきたくはないんだよ」
「レン、そうは言っても……配管はもともと、自然のもんじゃねぇ……」
「…………」
レンの声は消えてしまった。
「レン、なあ……レン……」
ゴウは、何かマズいことを言ってしまい、レンに無視されているような感じだった。サクはゴウの、言葉にならない、小さなうなりを耳にした。しかしそれも、しばらくすると消えてしまった。
サクは冷えたハンドルに額をあてた。
湧き上がってくる胸の内のモヤモヤに、支配されてしまわないようにと、頭を素早く、左右に振った。
静寂しかない空間に、ただ一人、自分は取り残されている。監視もいない。約束をやぶって、この奇妙な状況から、逃げ出すことだってできるだろう。
……でも、どこへ……?
行きたい場所なんてなかった。僕はまだ、過去に縛られているままだ。明日へ目を向けられず、後ろ向きに生きている。それは、生きていると言えるだろうか……。
「回せ、サク。左にめいっぱい」
唐突に流れた、レンの明るい声に、すぐには反応できなかった。ゆっくりと指に力を込めて、またハンドルを握り直す。
「うまくいった。さあ次だ。ゴウ、待たせたな」
サクはそのあと長い時間、レンやゴウに言われるまま、左右にハンドルを回し続けた。
回している間は、不思議と、今の状況や自分のことを、何も考えずにいられた。目の前のできることだけに、意識を集中させていたからだろう。
ほどよい緊張感と、少しばかりの好奇心が、サクの胸を高鳴らせていた。
空腹を感じ始めた、ちょうどそのころ、ずぶ濡れになった二人が戻ってきた。
レンの髪は少しだけ乱れていた。毛先から頬に伝う水滴を、手の甲でぬぐいながら、輝いたような目をして、サクに言う。
「よくやった、いい子だぜ。メシおごってやろう、ついてきな」
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