痴漢冤罪ですべてを失った私は

広晴

冤罪その後


「お久しぶりです、三枝さん。お元気そうですね。」


 田舎道を歩いてきて額に汗を浮かべた小太りの中年男は、玄関で私に丁寧に頭を下げてくれた。


「伊藤さんこそ、お元気そうで何よりです。遠いところを来てくれてありがとう。どうぞお上がり下さい。」


 互いに挨拶を交わし、伊藤さんを家へ招く。

 私がこのフリーの記者さんに直接会うのは1年ぶりくらいになる。

 風鈴が揺れ、クーラーで冷やした部屋に涼し気な音を鳴らす。


「いやあ、相変わらず三枝さんの家は遠い。でも本当に静かで落ち着くんですよねえ。」


「ええ、ここには何も無くて、何よりそれが私に一番必要なものです。伊藤さんが紹介してくださった不動産屋さんがいいところを見つけてくれたおかげです。」


「お役に立てたようで良かった。」


 汗をかきながら冷たいお茶に口を付ける、人のよさそうなこの男性に、私は大きな恩義があった。


「それで今日は何か、私に直接手渡したいものがあるとか?」


「ええ、久しぶりにお顔を拝見したかったのもあるんですが、いくつか直接お渡しした方がよいかなと思うものがありまして。」


 伊藤さんは大きなカバンから封筒などを取り出した。


「まずはこれ。三枝さんにご協力頂いて書いた私の本です。これがおかげさまでそこそこ売れましてね。こっちの封筒がその謝礼です。」


 本と一緒に受け取った茶封筒はかなりの厚さがあった。


「多くないですか?」


「正当な額ですよ。」


 伊藤さんはそういってお茶を飲む。きっと彼はこのお金を引っ込めたりはしないだろう。


「・・・ありがたく頂きます。」


「はい、どうぞ。・・・次はこれですね。娘さんから預かった手紙です。」


 彼が差し出した白い封筒を受け取る。

 私はA4用紙数枚の手紙を取り出し、目を通した。

 娘が書いた字を見たのはこれが初めてだった。



◆◆◆



 私は電車の中で痴漢の冤罪を掛けられた。

 OL風の若い女性が突然、私を痴漢だと大声で訴えたのだ。

 近くにいた男性が私を取り押さえ、私が触っているのを見たと証言した。


 私は警察に連行され、事情聴取を受けた。

 被害者女性に加え、取り押さえた男性の供述もあったため、初めから私は疑われていた。

 私は無実を訴えたが、疑いの目は晴れず、サインするよう言われた供述書は被害者女性の言うままのものだったため、サインを拒否した。

 家族や会社への連絡は許されず、私は勾留されることになった。


 10日たって、電車内のカメラによる検証と、私の手、女性の服に付着していた痕跡の鑑定等の結果が出て、ようやく私は解放された。

 警察官は私に頭を下げながら、二人組の詐欺の疑いがあると話してくれた。

 ようやく携帯を返してもらい、妻に連絡したが電話に出ることはなかった。

 家には連絡されていたらしいが、妻も娘も面会には現れなかった。




 マンションに帰った私を待っている家族はいなかった。


『性犯罪者とは暮らせません。』


 それだけ書かれた書置きと署名捺印済みの離婚届が残されているだけだった。


 家族仲は確かに冷え切っていた。

 妻は専業主婦だったが、私の稼ぎの少なさに嫌味を言う以外には口を利かず、食事を準備することもなくなっていたし、高校生の娘からは無視されていた。


 妻の実家に電話すると妻の母親が電話に出た。


『性犯罪者が何の用?』


 名前を名乗ったあとの義母の第一声がそれだった。


「私はやっていません。だから今日、やっと家へ帰ってこれたんです。妻と娘と話をしたいのです。」


 義母は近くにいたであろう妻に私からの電話に出るか声を掛けた。

 少し離れたところから妻と娘の喚き声が聞こえた。


『気持ちが悪いから切って!声も聞きたくない!』


『痴漢で警察に捕まった人が父親とか最悪!血を全部抜きたい!』


『聞こえたでしょ? だそうだから。』


 それきり電話は切られた。



 翌日、会社へ出勤したが、周囲の態度はよそよそしかった。

 良くない噂が飛び交っていることを感じながら仕事をしていると、上司から個室へ呼び出された。


「君、痴漢をしたそうだね?」


「やっていません。」


「とぼけんでいい。君が女性から大声を挙げられていたところを見ていた者がいるんだ。その人が撮った動画も見た。間違いなく君だった。」


「いや、それは冤罪で、」


「とぼけんでいいと言っている。君に対する処分は追って下される。それまで謹慎していたまえ。」


 私は呆然としたが、この上司は思い込みが激しく、決して自分の誤りを認めない人物だった。

 動画は社内の人間がたまたま近くに居たのだろうか。

 逆らっても無駄と感じたため、私は重ねて冤罪だと主張してから帰宅した。

 同僚たちは私と目を合わそうとしなかった。


 数日後、解雇の通知が郵送されてきた。



 そのころには私はもういろいろなことを諦めきっていた。

 あの会社で働き続ける気もなくなっていたし、妻と娘への愛情はとっくに冷めていた。

 私の父は死別しており、母とは昔からひどく折り合いが悪く、大学に在学中から連絡していない。

 残業や休日出勤の多い会社だったため、友人とも疎遠になっている。


 私は、一人だった。

 私が積み上げていたと思っていた何かは、恐らくティッシュ紙のようなものでできていたのだろう。

 激情は無く、ただひどく虚ろだった。


 何もできず、マンションの部屋で抜け殻のように過ごす。

 死が頭をちらついたが、その気力も出ない。

 1日、2日とただ時間だけが過ぎ、冷蔵庫の中にあったものを食べた気がするが、何を食べたのかも覚えていない。



 マンションのインターフォンが鳴った。

 私は何も思うことなく、ふらふらとインターフォンの受話器を取った。


「・・・どちら様ですか?」


 モニタに移っていたのは小太りの中年男だった。

 彼はモニタに対してお辞儀をし、低い落ち着いた声で挨拶をした。


『お初にお目にかかります。フリーライターの伊藤と申します。冤罪について取材の申し込みに参りました。』


 冤罪の取材?・・・ああ、こいつも私を踏みにじりに来たのか。


「・・・お断りいたします。」


『・・・ご心情、お察しするなどと烏滸がましいことは申しません。記事などの形にするなと仰るのであればそのようにいたします。』


 切ろうとする私に、彼は落ち着いて、壊れ物を触るような声で話しかけてきた。


『この取材を始めてから多くの方の悩みや怒りを伺ってまいりました。どうか僕に向けて怒鳴ってください。発散してください。僕はそういう方々の生の感情をできるだけ感じて、それを文章に乗せたいのです。誓って具体的なことは書きません。これから冤罪に苦しむ方を少しでも減らしたいのです。何卒お願いいたします。』


 彼はまたモニタへ頭を下げた。


「・・・どうぞ。」


 この時、なぜ彼を受け入れたのかは、今でも分からない。

 ただ、この後、彼は私の終生の友人となった。




 あのあと、伊藤さんから、弁護士を紹介された。

 こうした手続きに慣れた方であったため、これまでの経緯と、離婚したいこと、会社に戻る気はないことを伝えると、「悪いようにはしません」と以降の手続きをほとんど請け負ってくれた。


 妻からの不当な離婚請求、および会社の不当解雇について、慰謝料請求が行われ、私の言い分が認められて、わずかな金銭を得た。

 妻が署名済みの離婚届けがあったのですんなり離婚はなされ、娘の親権は放棄した。

 また、妻は通帳も持って出て行っていたが、弁護士の助言ですぐに紛失届の提出と再発行手続き、口座の移し替えを行ったため、預金はほぼすべて取り戻すことができた。


 これらの手続きの間、妻と会社から繰り返し電話があったが、それらはすべて無視した。

 弁護士にこの電話についても相談したところ、心療内科の受診を勧められ、求められるままにそこでの診断書を弁護士に渡すと、会社からの電話はすぐに止んだ。

 妻はそれでもしつこく電話をしてきたので、やむなく着信拒否の設定を行い、ようやく静かになった。



 余談になるが、この後、しばらく経ってから、私の上司だった男が会社から懲戒解雇されたと聞いた。

 40歳後半の男で自主退職扱いでもないので、再就職はかなり厳しいことになるだろう。

 それに伴ってか、会社が大きな人員整理を行って社員が減り、私が所属していた部署そのものがなくなったらしいと伊藤さんが口元を歪めながら珍しく悪そうな顔で話していた。

 私と伊藤さんは軽く乾杯して、私たちの間でこの話は終わった。



 慰謝料請求が確定して、その旨の通知を済ませたと弁護士から報告を受けた数日後、元妻と娘がマンションに押しかけて来たが、すでに鍵は交換してもらっていたので、鍵を開けず部屋から出なかった。

 最初はしおらしく「話をしましょう」等と言っていたが、徐々に言葉が荒くなっていった。


「中に入れなさいよ!」


「クソ親父!出てこい!」


 私がどうあっても出てこないと知るとその日は帰ったが、その後も2日と開けず母娘はやってきて、同じように騒いだ。

 何度も来てそのたびに母娘で騒ぎ、マンションのドアを蹴るなどしていたが、誰かに通報されたらしく、警察に連れていかれたのが窓から見えた。

 すぐに若い警官が私にも質問に来たので、冤罪の件も含めて状況を説明すると、ひどく恐縮して帰っていった。


 その後、母娘が直接来ることは一時止んだが、スマホの私と妻と娘のグループにメッセージが届いた。

 そんなグループを作っていたことさえ忘れていた。

 かつてそのグループを利用していたのは私が9割で残業の連絡がほとんど、妻の1割は私の連絡に対して最初のうちだけおざなりながらしていた返事、娘からのメッセージを見たのはこれが初めてだった。


『悪かったわ。話をさせて。』


『お父さん、ごめんなさい。反省してる。』


 大体こういった内容が繰り返し送られてきた。

 それに対して私はこう返信した。


『人の話も聞かず思い込みで俺を切り捨てたお前たちが、平気な顔をしてすり寄ってくる様が俺にはひどく気持ち悪い。吐きそうだ。籍はもう抜いたから、あとは俺の血をすべて抜いて俺とは二度と関わるな。』


 そしてその2つのIDをブロックし、スマホを契約しなおして番号も変更した。

 母娘はそれからも時折、マンションの周りをうろうろしているのを見かけたが、ネットで買い物を済ませるなどして部屋から極力出なかったため、幸い出くわさなかった。

 だが、状況を聞いて見かねた伊藤さんが不動産屋を紹介してくれ、私は別の県に引っ越すことにした。



 それからは穏やかな暮らしだった。

 引っ越し先に私を知る人はおらず、山あいの土地で近所の方々に手伝ってもらいながら、慣れない土いじりをして過ごした。


 ここは田舎だったが、意外と同世代の人たちも多く、都会から様々な理由でやってきた方も見られたため、私が浮くようなことも無く、簡単にここへ来た事情を話すと好意的に受け入れてもらえた。

 もちろん体力的には辛い部分もあるが、ここで私は、久しぶりに笑った。

 最後に笑った確かな思い出は、娘が生まれたときだった。


 伊藤さんとはメールのやり取りが続いている。

 彼はたまにふらりと遊びに来て、いろんなくだらない話をして帰っていった。

 本を書くときに私の体験に触れていいか尋ねられたので、実名以外は何でも書いて良いと伝えた。


 私は新しい土地で改めて何かを積み上げていく実感を得ている。

 それは妻と娘との生活や、あの会社での仕事では得られなかった、充実した何かだった。



◆◆◆



 伊藤さんから受け取った娘からの手紙には、妻が実家から追い出されて今どうしているかは分からないこと、娘は妻の実家に世話になって専門学校へ入り、一人暮らしを始めたことなどが記されていた。

 妻の実家も裕福ではなかったため、一人になり、自分で学費や生活費を稼がなければならなくなってようやく、自分の母が間違っていたことを知り、私に対する仕打ちを後悔したと綴っていた。

 私はもう一度軽く目を通してから、手紙を畳んだ。


「伊藤さん、ありがとう。」


「いいえ。すみませんが、娘さんにも許可を得て手紙の内容は確認しました。不快なものではないと思ったので持ってきましたが、大丈夫でしたか?」


「ええ。」


 私も少しぬるくなった茶に口を付けた。

 自分の今の感情を言葉にするのは難しいが。


「私はどうも冷たい人間のようです。」


「・・・返事はどうされますか?」


「・・・少なくともすぐに書く気にはなれないですね。もし書けたら娘に渡すのをお願いしてもいいですか? 申し訳ありませんが。」


「ええ、いつでもどうぞ。」


「今日は泊って行かれますか? 酒は準備してありますよ。」


「魅力的なお誘いですが、本の重版が決まってちょっと戻らなきゃならんのです。」


「おお、ではそのお祝いもしないとですね。」


「近いうちにまた来ますので、その時にでも。」


 そう笑って、伊藤さんは帰っていった。



◆◆◆



 父が癌で亡くなってから5年が過ぎた。

 今日、初めてこの土地へ足を運んだ。

 父が亡くなったこと、こちらにお墓があることを伊藤さんから聞いてはいたが、私が父に手を合わせる資格があるとはどうしても思えなかった。

 だが息子に「祖父に挨拶がしたい」と言われては断ることは難しかった。


 息子は『三枝家之墓』と刻まれた質素な墓石へ黙って手を合わせている。

 私は一歩下がり、少し離れたところで手を合わせてくれていた小太りの男性に声を掛けた。


「伊藤さん、今日はご案内頂いて本当にありがとうございました。」


「いいえ。息子さんも大きくなられましたね。もう高校生でしたっけ?」


「はい。・・・あの時の私と、同じ年になりました。」


「息子さんに話されたこと、ご立派だと思います。」


私は黙って頭を振る。


「・・・父の手紙にありました。母と私を許すことはできそうもない、と。私にここに来る資格はありませんが・・・夫と息子には会ってもらいたかったです。」


「きっと、喜んでいらっしゃいますよ。あなたが来られたことも。」


 私が目を伏せ、返事に悩んでいると、手を合わせていた息子の声が聞こえた。

 息子は目を開け、墓石に向かって話しかけています。


「お祖父さん。母があなたにした仕打ちを聞きました。伊藤さんの本も読みました。我が母ながら、なんて酷いことをするんだと思いました。母と祖母を許せないと思った気持ち、なんとなくですが、分かります。」


 息子の声が私を打ち据え、涙が滲むのを堪えます。私に父の前で泣く資格はありません。


「許してなんて、言えません。・・・でも、その話を僕にした母は、お祖父さんからの手紙も見せてくれました。それを読む僕を見る母は静かに泣いていました。僕は初めて母が泣いているところを見ました。・・・きっと、今も、これからも、母はずっと苦しむと思います。」


 伊藤さんも、なんとも言えない表情でそれを聞いています。


「お祖父さんは手紙で、2人を許せないって書いてましたけど、同時に祖母に母を任せっきりにしたことへの謝罪と、お祖父さんという傷が、母を優しい人間にしてくれると良い、と書いてくれていました。・・・それはきっと、そうなっていると思います。・・・それだけ、伝えたかったんです。」


 それだけ言うと、息子は墓石に深く頭を下げました。


「また来るよ。今度は、今日仕事で来れなかった父さんも連れてくる。」


 息子は笑顔でそう言い、墓から離れました。

 私もお墓に頭を下げ、その場を離れます。


「よかったね。三枝さん。」


 父に語り掛ける伊藤さんの優し気な声が、私たちを見送ってくれました。


<終>

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