風の名前

歌峰由子

1章 黄昏時 -1

 黄昏時――開けた場所に先んじて、木陰や葉陰に夜が訪れる時間帯。辺りに迫る、鬱蒼としたそれらから逃れるように、必死にレプは裸足で土を蹴っていた。裾の擦り切れた、膝丈の短衣が翻る。

「もう少し早く走れないのか! 完全に日が暮れてしまう!!」

 少し先の馬上から、高めに尖った少年の声がレプを咎めた。レプの主――所有者である少年、ヒサリだ。

「るっさいクソガキ! お前がいつまでも門の前でグズグズしてたのが悪いんだろうが!」

「なッ……! クソガキとは何だ主に向かって!! それに、お前も大して年は違わないだろう白髪頭!」

 キャンキャンわめく、という表現がぴたりと当てはまる様子で、馬首を返して止まったヒサリが反論する。柿渋染めの胴衣一枚という粗末な身なりのレプとは異なり、ヒサリは鮮やかな青色の長衣に革の小具足や靴を身に着けていた。その黒髪も艶々と丁寧に梳られ、襟足に切り揃えられている。――大変なボンボンなのだ。成人の儀としての「旅」に、奴婢を一人買い与えられるほどの。

「年の話してンじゃねーよ! ココの話だ、ココの!!」

 大声で怒鳴り返しながら、レプは右手の親指で胸の真ん中を叩いた。「なっ!」と、薄暮の中でもそれと分るほど、ヒサリの整った顔が赤くなる。

 ヒサリの一族は、この瑞穂の国へ降り立った天孫のうち、姓を賜り臣籍に降下したもののひとつだ。つまり、遠くではあるが皇族の血を引いている。その上、ヒサリは四姓と呼ばれる有力氏姓のひとつ「ク氏」の嫡子だった。

(どうせ、我儘放題育ったんだろうが! 服に着られやがってお坊ちゃまめ……!)

 まだこれから四肢の伸びる年頃ではあるが、ヒサリは同年代のレプと比べてもだいぶ華奢で、顔立ちもむさ苦しさとは無縁だ。彼用に誂えられたはずの小具足に対しても、手足の細さ、小ささが目立つ。

 ――とはいえ、流石に四姓の嫡流ともなれば、半端に根性が曲がることもないのだろう。奴婢など馬に麻縄で繋いで引きずって走ればよいものを、不機嫌全開であってもご丁寧に馬を止めて待っている。それに、これだけの口を利いてもその右手は、腰の剣にかかる様子がなかった。

 一方のレプはといえば、つい先日ク氏に買われたばかりの奴婢である。他人より多少浅黒い肌に、日の下では金茶色に見える眼、更に真っ白な髪という一風変わった見た目と、頑丈なところを気に入られ、元は浮浪児であるがそこそこ高く買われて現在に至る。

「とりあえず、これ以上速くは走れねェ。お前、先に村まで行ってろ」

 ――辺りが夜闇に沈みきってしまえば、『』が出る。

 とは、五行の気の乱れによって、陰の気が凝ってできた化け物だ。夜になると山野に現れ、人を食う。ク氏はこの怪や鬼、土蜘蛛といった魑魅魍魎を退治することで、朝廷の信頼を得ている氏姓だった。しかし、このぴかぴか新品の剣を持ったお坊ちゃまが、鮮やかに怪を退治できるとは思えない。本人もその自覚があるから道を急いでいたのだろう。

「ふざけるな! ク氏の私に、一人逃げろというつもりか!」

「そう言って踏みとどまる気概は認めてやるよ。けどなァ、俺もひとり生き延びたって、持ち主が死んでりゃ殺されちまう。それに、俺らみてェなのには、それなりのやり方があンだよ。荷物が多くて的がデカくて、小回りが利かねえおめーは邪魔だ」

 奴婢は主の「持ち物」だ。主が死ねば副葬されてしまう。無論、そうなった時には逃亡も選択肢だが、それ以前に、この性根は悪くない「主人」を亡くさず済む方が当然良い。

(俺ひとりなら、こんな低い峠に出る程度の怪なんざァどうにでもなる)

 ヒサリに与えられたこの「旅」は、ク氏の成人として認められるための試練だ。だが試練と言って、そう難しいものではない。単に、新たなク氏の成人男子――武人として、その名を刻んだ木管の入った箱を、氏神の社へ奉納しに行くだけである。

 氏神の社は、都にあるク氏の屋敷からは低い峠をひとつ越えた山の中にあり、その麓はク氏の郎党が住まう村となっている。一日弱の道のりで峠を越えてク氏郎党の村に着き、おさの家で歓迎の宴を開いてもらって、翌日、山に登って木管の箱を奉納すればヒサリの「試練」は終わりだと聞いていた。

 怒りのあまり言葉が出てこなかったのか、無言でヒサリが馬の腹を蹴った。流石に言い過ぎたか、とレプは内心肩を竦める。副葬される以前に、馬に蹴り殺されて終わりかもしれない。

「おい待て、ちょっと言い方が――」

 悪かったが。そう弁明しようとレプが両手を上げた、次の瞬間。

 ――ざわり、と周囲の木立が鳴った。

 馬が怯えたようにつんのめって止まる。異変に気付いたヒサリが、馬上で周囲を見回した。

「まさか、もう」

「お出ましの時間にゃ早い気がするな」

 レプも舌打ちしながら、辺りの気配を探る。――間違いない、だ。辺りはまだ、物の色彩が分かる程度の明るさを残している。普通であれば、まだ怪は出ない頃合いだった。

(嫌な感じだな……)

 がさ、がさ、と繁みを鳴らして「怪」が現れる。数は三体か。レプはヒサリの乗る馬の方へ、周囲を警戒しながら身を寄せた。

 怪は獣面人身――馬や狗、あるいは三ツ目に角といった異形の頭に、筋骨隆々として毛むくじゃらの大男の体を持つ化け物だ。その口からは瘴気を撒き散らしてえやみを引き起こし、夜道で人と行き会えば手に持つ棍棒で殺して肉を食む。

「おい。お前、あの五行師から護符を貰ってたな」

 獣の口から、人語ではない呻りを漏らす怪を前に、身構えながらレプはヒサリを流し見た。

 五行師――それは朝廷に仕え、名の通り「五行」の気を整える術士だ。この世は陰陽五行の気で成り立っているが、その気の流れを整えて怪や禍を祓い、神を祭って福を呼び込むのを仕事とする、朝廷の官僚だった。

 レプはあの五行師という連中が嫌いである。その嫌悪感がにじみ出た問いに、むっとした様子で馬上のヒサリが頷いた。周囲では、怪同士が何かひそひそと会話を交わしている。その言葉は人語でないため分からない。ただ、粘つくような笑いを含んでいることは、相手が馬頭・狗頭であってもなぜか分かった。

 怪の退治を仕事にしているク氏の家に、五行師はよく出入りするらしく、ヒサリは年若い五行師を「先生」と呼んでやたら懐いている様子だった。そもそも、今日の予定がこんなに押しているのも、偶然出発前の門で出会ったその五行師と、ヒサリが長々立ち話をしていたせいだ。

 ならいい、とレプも頷いて、おもむろにヒサリの乗る馬の口元の手綱を掴む。そのまま引っ張り、馬を反転させた。

「お、おいっ!?」

 動きについて行けず、上体を泳がせながらヒサリが声を上げる。それを無視し、レプは思い切り馬の尻を蹴った。馬が嘶き、向こうへ――目的地の方へと駆け出す。

「そのまま一目散に村まで駆け込め! 俺は後から行く!!」

「貴様よくも――ッ!」

 何か叫ぶヒサリの声が、あっという間に遠くなる。その気配が木立の向こうに消えたのを確認して、レプは不敵に口の端を上げた。

「よォ、お前ら。理由は知らねェが、早起きし過ぎたな?」

 言って、大地を踏みしめ下肚に力を溜める。

「俺と会ったが運の尽きだ」

 ――低く言うと同時。

 ごう、と風が唸った。

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