タイムストッパーは止まらない

朝倉亜空

第1話

 世の女性諸君、よく晴れた日の昼下がりに気持ちよくお散歩などしていると、瞬間的に突然、唇が濡れたように湿り気を帯びていることに気づき、吹く風にひんやりとした冷たさを感じる。そんな経験をしたことがあるだろうか?

 もし、そのことに身に覚えがあるのなら、あなたは相当な美人に違いない。実は、つい、今しがたもそうだったんだぜ。えへへ。

 俺は超能力者だ。なんの力があるのかっていうと、俺には時間を止めることができるのだ。

「時間よ止まれ!」

 月並みのセリフだが、俺がそう叫ぶと、ピタッと時間の流れがストップする。で、すべてが音もなく静止しているこの世界の中で、俺一人だけが自由に動き回ることができるってわけさ。だから、たった今も繁華街を街ブラしている最中に、正面から歩いてきたとびっきりのグラマラス美人を発見した俺は、そのすれ違いざまにつぶやいたのさ,「時間よ止まれ!」って。

 そのあと、俺が何をやったかは、もうお分かりだろう。うへへ。そう、うっとりするほど美しいその女性にぐっと接近し、その肉感的な唇に、俺の情熱たっぷりの熱烈なキッスをプレゼントしてあげたのさ。彼女の魅力的な唇の柔らかい味わいをそこに吸い付いた俺の唇が十分に時間を掛けて楽しんだところで、(ん? 時間を止めているんで、いくら時間を掛けようが、一秒たりとも時間は掛かってないんだっけ? ま、いいや)俺は彼女から離れ、唾液で濡れた自分の唇を右手の甲で拭った後、再び、俺はつぶやいた。「時間よ動け!」

 この言葉を発することで、時間は再び動きを取り戻す。

 俺はちらりと振り向いて、彼女を見たところ、彼女はなんでだろうとでも言いたげな怪訝な表情で小首をかしげ、突然、べっちょりと濡れている自分の唇をバッグから取り出したレースのハンカチで拭いていた。いやー、ごちそうさん!

 せっかく時間を止めたんだったら、もっと、あーんなことやこーんなこと、やーらしいこともいっぱいできるんじゃないかって思うかもしれない。しかし、残念なことに、そんなエロ映画みたいなことは出来ないのだ。時間を止めるのは、せいぜいがとこ、二十分。もちろん、実時間はゼロ分なので、俺の体感的時間経過でね。それ以上は危険だとして、俺はやらないようにしている。

 何が危険なのかって言うと、さっき俺一人だけは自由に動き回れるって言ったが、本当は少し違って、実は、俺自身にもタイムストップ効果はじんわりと現れて来ていて、俺を取り巻く時間の動きも徐々にスローモーになっていくのだ。三十分もすれば、病気で高熱を発している時の様に動きがドロッと重い状態、水中で手足を動かすときの様なヌッターリ感を感じるようになり、おそらくは更に十分、十五分で俺の時間も完全に止まってしまうのだろう。地球が時間の静止した星になる。

 しかしまあ、たとえ二十分でも時間を止めれば、結構いろいろ役に立つもんだ。

 つい、先日も夜の飲食街でタチの悪い粗暴な酔っ払いに絡まれた時も、そいつの振りまわしてきたパンチをタイムストップさせ、代わりに俺がそいつの股間を思いっきり蹴り上げたうえで、スキップしながら立ち去ってやった。それぐらいのことは出来る。

 非常事態に陥った時、ピンチをチャンスに変えてくれる、まさに魔法の言葉なのだ。別に何時もいつもキレイな女の子を見かけた時だけにつぶやいてるわけじゃないんだぜ。誤解しないでくれよ。

 そんな俺は当然のようにこの超能力を用いての職業に就いている。実は今日もその職場へと足を運んでいるところなのだ。俺の職場はコロコロと変わる。今回の職場は都心より少し山の手にある上品で簡素な住宅街、その中の八階建て中層マンションの最上階の一部屋だ。外観からしてゴージャス感、リッチ感がひしひしと伝わってくる、まさに富裕層御用達の一棟だ。そう、俺の仕事は空き巣狙いである。いや、違う。俺の場合、住人が居ようが時間を止めて一仕事終わらすんだから、空いてない巣狙いだな。世界にひとりのタイムストッパー型空いてない巣狙い。

 金持ちが住むんだったら、タワマンじゃないかだって? 分かってないなー。タワマンなんてのはちょっとした金持ちが喜んで住むところ。真の大金持ちは環境の良い立地条件を満たした中層高級マンション、その最上階に住んでるんだよこれが。勉強になった?

 そうこうするうちに俺は目的に定めたマンションの前まで到着した。

 時間は午後五時半。俺は既に行っていた下調べで、ここの主は間もなく帰宅することを知っている。しかしなんだな。五時半に帰って来れるって、じゃあ、何時に会社を出てるんだってーの。それでいて、大金持ちって……、世の中って不条理だぜ、まったく。

 ほどなく、ひとりの小太りの男がマンション入り口の玄関扉に到着した。俺のターゲットに選んだ部屋の主だ。俺はすーっとその男の背後に付いて歩いて行き、男が暗証番号で開けたエントランスのセーフティードアも一緒に入っていった。エレベーターも同様にして、男の後ろから入り、八階のフロアボタンはごく自然な感じで俺が押した。これが一番目立たない。

 八階に到着したエレベーターから、俺たちふたりは出て、歩きだした。俺は小太り主から適当に間を開けている。自室の扉の前で立ち止まった主は、ポケットから取り出した鍵でロックを外し、ドアノブを掴んで、グイッと扉を開けた。

「ただいま帰ったよー」

 主は部屋の中にいる、おそらく細君に声を掛けた。今だ!

 「時間よ止まれ!」

 俺は言った。

 万物が完全静止している中、俺は玄関扉の前で靴を脱ぎ、それを持参したリュックの底にしまい込んだ。職場にはゲソ痕を一切残さないようにしている。

 靴下一枚で悠々と小太り主と空けた扉の隙間から部屋の中に入っていった。

 手入れが行き届き、磨き上げられている廊下は、靴下履きだとこけそうなほどつるっつるとよく滑る。このつるっつるという言葉は本物の金持ちを表す絶対的なキーワードだね。床の高級フローリングや大理石でできた贅沢な柱、バルコニーの手すりなんかどこもかしこもつるっつるのピカッピカだ。廊下を過ぎると、無駄にだだっ広いリビングダイニングに出た。

 俺はまず、室内をぐるっと見回した。天井の照明からして凄い! 小型のUFOかと思うほど巨大なシャンデリア。バルコニーからの夕日を受けて、クリスタルガラスの装飾が無数にキラッキラと輝いている。いやー、たいしたもんだ。

 壁一面にはテレビの液晶パネルがはめ込んであり、まるで小劇場の映画館だ。200インチは優にありそうだ。スピーカーの数なんて皆目見当もつかない、あっちこっちに配置されてある。二十個以上だ。見たことねえよこんなの。そんな中で、ダブルベッドなのかってほどの大型のソファーから立ち上がりかけた途中で、へっぴり腰状態のまま固まっている女性がいるが、細君だろう。ちょっと正面に回って、顔でも拝んでやるか。うはっ、とんでもねえ美人だぜ! 高級な青白い花柄ワンピースを上品に着こなしてるじゃねーか。クソッ小太りのくせしゃーがって、いいもん持ってんなー! 僕ってさー、極上品しか興味が湧かないんだよねー、ってか。糞。糞糞糞の糞。

 他の部屋を見ても、圧巻の、ビックリ仰天だった。ゴーギャンだのピカソだのといった、俺なんかにゃよく分からねえが、大きな油絵が整理して飾ってある部屋が三つ。とんでもねえコレクションだ。小太りの奴、影の画商かよ。全部売ったら何十、いや、何百億か何千億か。しかし、さすがは世界の名画だ。つい思わずじいーっと、時間が立つのも忘れて一つひとつ見入っちまったぜ。……おっといけねえ。度肝を抜かれてうっかりしてたが、仕事だ仕事。

 俺は頂き物を物色するため再び、リビングへと戻ろうとした。のだが、やっべー、俺の動きがまるで水あめの中にいるようにゆっくりだわ。まだ何ひとつ頂戴もしてねえってのに、体感三、四十分ほど経ってたか。まずったわ。

 ここは一旦、時間を動かさなくては。俺はヌーッタリ、クーッタリと動きながら、バルコニーへと続くガラスドアを開け、そこへ出て、言った。「時間よ動け!」そっとドアを閉める。

 ドアのカーテン越しにそっと中を見ると、中腰からしゃんと立ち上がった美人の奥サンは、すたすたと玄関の方へ向かって歩いて行った。

 耳にはクルマの走る音やエアコンの室外機の駆動音など、日常普通にある音が聞こえている。

 ところで、ここで今すぐ再び「時間よ止まれ!」とは言えないのが、ちょっと手間が掛かるところなのだ。例えば、体感五分タイムストップさせたなら、五分ほどはこの能力は使えなくなる。体感十分使えば十分使えない。チャージが必要。タイムストップ能力ってのはそれほど体内エネルギーを消費するってことなんだ。よって、今回の場合は三十分以上はここでじっとしてないといけないことになった。ちょっとダルいが仕方がない。俺はしゃがんだまま、静かに身を潜めていた。

 だが、午後六時を回り、五分、十分、ニ十分と徐々に暗くなってきた夜気に当たっていると、少し身体が冷えてきた。地上八階の高さなので、吹き付ける風も相当に強く、なおさら身体が冷えてくる。さらに十数分後、俺は不覚にも、

「ハーックション!」

 大きなくしゃみをしてしまった。やっちまった!

 どうやら主の耳にも届いたようだった。室内から、こちらへ向かって歩いてくる気配がする。まさか、お前、不倫男をバルコニーに隠してるんじゃないだろうな、と、美人妻にひとこと発し、ずんずんここへ近づいてきた。

 俺はとっさに手すりを乗り越え、隣室のバルコニーへと飛び移った。慌ててしゃがみ、手すりの影に身を隠す。と、同時に小太り主がガラスドアを開けた。

 険しい顔でキョロキョロと辺りを見渡しながら、「おい、誰かいるのか」と、ひとこと言った。その後、じっくりと右を確認し、丹念に左を注視し、もう一度、右を見た。それで、納得したのか、顔の表情を緩め、ドアを閉め始めた。

 まずい! ドアを閉め、ロックを掛けられたら、俺はバルコニーに締め出しだ。帰れなくなる。慌てて俺は言った。

「時間よ止まれ!」

 時間は止まってくれた! 小太り主がガラスドアを半分ほど締めかけたところで、かっちりと彫刻のように固まっている。ぎりぎりパワーチャージができていたようだ。助かったぜ。

 では、改めて仕事に取り掛かるとするか。

 俺は再び隣室の手すりを乗り越え、小太り主の部屋へ戻って行こうとした。が、その時、手すりに乗せていた靴下履きの足がつるっと滑り、身体のバランスを大きく崩してしまった!

「あ゛、あ゛ーあ゛ァ!」

 世界のすべての物体が静止している中、マンションの八階バルコニーより自由落下した俺の身体だけが手足をバタバタさせながら動いていた。

 ドジュゥン! という音だけが無音の世界に響き渡り、それとともに俺は地面に衝突した。べしゃんこにひしゃげた俺の身体から、四方八方に真っ赤な血しぶきと茶色い体液が飛び散った。それが地球最後の動く物体であった。無論、俺の口が「時間よ動け!」と言葉を発することは決してない……。



 

 

 


 




 

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