戦場の蟹
ざくろ山
第1話
捕まえた蟹は爪が大きく、ずんぐりとしていた。南国特有の種類だろう。それを鍋の代わりにした鉄帽に入れて火にかける。ぷつぷつと底から上がる気泡の数か増えるにつれて、うっすら茶色がかった甲羅が少しずつ赤くなっていく。その暴れる蟹を拾った木の棒で抑えつける。
「この蟹も食いではありそうだが、味は私の故郷の蟹には敵わんだろう。北陸の蟹を君たちは食べたことがあるか。まず見た目が良い。足の一本一本が長くて均整がとれている。味は上品で繊細。蟹の世界における貴婦人と言ったところか。」
「それを言うのであれば北海道の毛蟹の右に出るものはおるまい。小ぶりな姿ではあるが、棘と硬い殻に守られた身に味が凝縮されている。そして何より味噌が濃厚で、酒が何杯でも飲めるぞ。」
調理を担当している私の後ろで佐山上等兵と出島上等兵が故郷の蟹自慢を始めた。我が大日本帝国がアジア全域を手中に収めようと始めた戦争もアメリカを中心とした連合軍の反撃にあい、南方ではサイパンをはじめ多くの島を失った。我々が守っていたグアムでの拠点もアメリカ軍に無数の艦隊によって崩壊した。それからずっと我々の部隊は肌を焦がす熱帯の強い日差しと湿気に苦しめられながら、ジャングルを駆けまわる日々を過ごしていた。時折小規模な戦闘と撤退を繰り返し、いつか援軍が現れると信じて待ち続けることしかできなかった。戦局は絶望的であるが、飯を食べるときは一時現実を忘れることが出来たのだろう、二人は内地にいるような暢気な言い合いを珍しく始めていた。
鍋の中の蟹が静かになっていく。ゆっくりとだが確実に死に向かっていく哀れな蟹。生きたまま茹でられるなんて石川五右衛門ではあるまいし、同情すら覚える。何の罪もない蟹だが、それは仕方がないことさ。ここには生きるか死ぬか、自然の摂理があるだけだと心の中で呟いた。何かの命を奪い、生物というものは生きることが出来るのだ。何者かを殺すこと、引き金を引き続けることが、生き残るためには必要だと、この戦場で学んだ。
不意に蟹の爪が弾けるように動いた。残りの足も一斉に踊りだした。私は慌てて木の棒に力を加えた。最期の抵抗を、ぐっと抑え込んだ。
「河村一等、ここまできて標的を逃がしたら自決ものだぞ。いや、蟹を捕まえた佐山上等が斬りかかるかもしれんぞ。」
出島上等兵の笑い声が背中に浴びせられる。満州から転戦してきた歴戦の猛者で、大きな顎で豪快に笑う彼は、勝ち目の薄い戦いを続ける部隊の士気をいつも支えてくれる存在だった。その隣では佐山上等兵が穏やかに笑っていた。
茹で上がった蟹の足をナイフで落とす。胴体は佐山上等兵が器用に解体してくれた。全員に行き渡らせると量は少なくなってしまったが、連日果物ばかりの食生活に飽き飽きしていた中での御馳走は、戦場の張り詰めた空気から隊員たちを解放してくれた。たとえ一瞬だけだったとしても緩やかな時間が流れた。
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