ボクの世界、キミの世界

月野 白蝶

プロローグ

~1~

「片桐、湊……」

 戸籍謄本に書かれた文言をモゴモゴと繰り返し、湊はムズ痒い気持ちでいっぱいだった。

「……かたぎり……」

 孤児院の出であり、その後はアングラな世界にいた湊に姓はない。初めて与えられたそれは、綿菓子のように、ほの甘い気持ちを湊へ与える。

 そこへ、腹に響くバリトンが響いた。

「おーい、すまんすまん。思ったより手続きに時間がかかってな。待ったろ」

 相手に顔を向けると、長身で大柄、筋肉質で無精髭が特徴の壮年の男性が軽く手を振ってきた。声の響きと、明らかに堅気でない雰囲気に、何人かが振り向く。

「オジサン」

 事実、彼は堅気ではない。警視庁捜査一課、検挙数は課内トップの人材だ。

 名前を、片桐渉。今年で37になったばかり。タバコと酒を嗜み、趣味は筋トレとランニングと言う地味な『おじさん』だ。

 片桐は、湊が持っている書類を見て、満足気に頷いた。

「お、戸籍謄本出来たか。よしよし。コレで全部だな」

「ねぇ、」

「ん?」

「ホントにいいの?」

「何がだ?」

 キョトンと首を傾げる片桐は、湊のセリフの意図がまるっきり読めていないようだった。

「その……ボクを引き取るの」

 蚊の鳴くような声で呟けば、「またその話か」と片桐は苦笑した。

「何度も言ったろ? コレは、俺が好きでやってることだ。お前を裏切らないとも誓った。

 それともアレか? 俺を裏切り者にする気か?」

「違う! 違うよ……でも……」

 この気持ちをなんと言えば伝わるのだろうか。胸にわだかまる、不安。

 しかし、それすら見透かしているかのように、片桐は笑ったあと両脇に手を入れ、湊を抱き上げた。

「ちょっ……オジサン! 恥ずかしいよ!!」

 湊は、数えで12になる歳だ。今までの生活が祟り身体こそ細く軽いが、羞恥心はある。無駄と分かりつつ手足を振り回すも、効果は無かった。

「わははー、恥ずかしがれ恥ずかしがれー」

「オジサン!」

 心底楽しがっている様子の片桐に、抗議の声は届かない。

「……もう……」

 小さくため息をついて、湊は苦笑した。



 ──この日、『片桐湊』は産まれた。

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