第15話 踏み出す勇気 #15


 「え……?」


あまりにも予想外の言葉が耳に入ってきた僕の脳内は、それを理解するのに時間がかかった。動揺がアスカさんに伝わったのか、アスカさんは僕を諭すように微笑んだ。


 「勘違いしないでね。異性として、とかじゃないからね。純粋にタクヤくんのバレーしている姿だから。ファンみたいなものかな」

 「は、はぁ……」

 「それでタクヤくんが意識しちゃったらこの店で働きづらいでしょ?」

 「ま、まぁそれはそうですけど……」

 「何? なんか腑に落ちなさそうだけど」

 「いや、アスカさんっておれのバレーしてるところ、見たことありましたっけ?」


当時の記憶を、机の引き出しを開けていくように次々と探っていくが、僕の記憶にはアスカさんが僕のバレーをしているところは見たことがないはずだった。第一、学生の頃アスカさんとは本当に接点が無かったのだから。すると、アスカさんはまたふふっと微笑んだ。


 「私、密かにタクヤくんのチームを応援したくて体育館に足、運んでたりしてたんだ。たまにユリと一緒に見に行ったりしてたんだよ。全然気づかなかったでしょ」

 「マ、マジっすか!? 姉からもそんなこと一言も聞いたこと無かったんですけど」

 「だって私が言わないでって言ったんだもん。それに天下の星堂高校は大応援団がいたからそれに紛れちゃったら流石に分かんないよね」

 「な、何で姉に言わないでって言ったんですか?」

 「いや、普通に恥ずかしいじゃん? 友達の弟を応援に行くって。ふふ。って言うのは建前で、ただの自己満足だよ。もしそれを言ってタクヤくんの心境に影響があったりしたら大変だと思ったからね」

 「言ってもらえた方がモチベーション上がったりしたかもしれないのに?」

 「調子いいこと言ったらダメだよ。そんな気なんか無かったでしょ。バレーに打ち込んでるなら尚更だよ」

 「……まぁ確かに高校生活はほとんどバレーしか記憶に無いっすからね」


話し続けていくうちに、目の前には中身の無くなったチューハイの缶が続々と増えていった。それなのにアスカさんの顔色は全く変わらず雪のように真っ白だった。


 「私はあの時思ったんだ。彼がいるからこのチームは全国に行ける。そして勝っていけるんだって。私、あんなにボールを魔法使いみたいに扱う人初めて見たよ。てかさ、プロよりも上手いんじゃないの?」

 「いやいや、それは褒めすぎです。上には上がいますよ。現におれらは全国では二回戦で負けちゃいましたからね」

 「スパイカーの馬力で比べたら、タクヤくんたちよりも春高予選の決勝で当たった城宮高校の選手たちの方が強かったよ。それに、レシーバーだって当時ナンバーワンリベロって言われてた子が城宮にいたじゃん」

 「よく知ってますね、しかも過去の情報」

 「その当時、結構ガチでハマってたんだよね。バレーボール見るの。だから、結構突っ込んだ話題で話せると思うよ」

 「ア、アスカさんってバレーの話出来るの今日初めて知りましたよ」

 「言ってなかったからね。でも、今日は言おうと思った。あと、もう一つも……」

 「もう一つ?」


アスカさんの声と表情が、まるで試合が始まった選手のような真剣なものになった。


 「タクヤくん、プロになりなよ」

 「え?」


僕の脳内が再びパニック状態に陥った。頭の中をアスカさんにかき混ぜられたように混乱した。それと同時に、「プロ」という言葉に胸を締め付けられたように息苦しさを覚えた。


 「急に何を言い出すんすか」

 「バレーが好きでしょ?」

 「そりゃあまぁ、好きですけど……」

 「じゃあ絶対なるべき。まぁなってほしいって思ってる私の個人的な意見もあるけどね」

 「うーん」


僕は当時、散々周りからそういうことを言われ続けた。高校で挙げた成績やこれからの期待を膨らませた大人たちのそういう声が当時、毎日のように聞こえていた。まさかアスカさんからもそういう声を告げられるとは思ってもいなかった。胸の奥につんとした痛みが走る。


 「タクヤくんはどんな気持ちでバレーをしてるの?」

 「上手くは言えないですけど体が動かせればいいや、今のチームで県の大会で優勝出来ればいいやって思ってるのが一番大きいとこですかね」

 「その上のレベルでしたいとは思わないの?」

 「そこから上はおれのレベルじゃ通じないんです」


淡々と答えた僕に苛立ったのか、アスカさんは握っていたスプーンを力強くテーブルの上に置いた。その衝撃で僕の目の前にあったプリンも怯えるように揺れた。


 「……そんなのやってみなきゃ分かんないじゃん!」

 「分かるんです。自分の限界」

 「……何で分かるの?」

 「あの日、思ったんです。勝っても勝っても強い敵が現れる。しかもその敵はどんどんレベルが高くなって自分たちを潰しに来る。どれだけ努力しても越えられない壁を目の前に立たせてくるんですよ。あの日の相手にだけは本当に勝てる気がしなかったんです」

 「あの日って春高の二回戦の?」

 「はい。沖縄の流王高校です。おれらがどんな攻め方をしても奴らのブロックはそれを阻んだ。奴らのレシーブはボールを落とさなかった。奴らの攻撃は速かったんです。初めてでした。あんなにバレーボールで恐怖を感じたのは」


僕の顔をまじまじと見るアスカさんは、表情を変えないままはんっと鼻を鳴らした。


 「だからもう上を目指したくない? そんな思いをするなら今のレベルがちょうどいいって思ってるってこと?」

 「……簡単に言うならそうですよ。ごめんなさい、幻滅しましたよね」


自己嫌悪を盾に取る何とも惨めな僕を見るアスカさんの目には、当時の僕を見ていたのなら想像も出来ない今の僕が目の前にいるはずだ。僕も流石に居心地が悪くなってきて、出来ることなら家に帰りたくなっている。ただ、今流れている空気が重すぎて、今帰ってしまったらもうここには来れない気がした。


 「逆だよ」

 「え?」

 「勿体ないっ!」


アスカさんはそう叫ぶと、テーブルから身を乗り出して僕の両頬を手のひらで挟んだ。ばちんと耳元で音が鳴り、熱気を帯びた手がアスカさんの感情を表しているかのようだった。僕はアスカさんの手のひらに顔を挟まれたまま彼女を見つめた。彼女の目が少しだけ潤んでいた。


 「強い人たちがぶつかり合うんだから、そこに怖さがあるのは当たり前じゃん! みんな本気でやってんだからさ! 日本は広いんだから上には上がいるのは当たり前じゃん! 流王高校だって次当たったチームに負けたのは知ってるよね?」

 「知ってますよ。だから尚更努力するのが嫌になったってのもあったんですよ! 勝てないのに努力する意味あるのかなって!」


アスカさんと見つめ合ったまま僕の声も大きくなる。アスカさんは動揺したのか、出かかった言葉を飲み込んだような気がした。そして、しばらくお互いその状態のまま黙り込んだ。時間が止まっているように感じ、秒針を刻む時計の針の音だけが部屋に響いている。手を離すタイミングを見失ったのか、アスカさんは僕の顔を挟んだままの状態で動こうとしなかった。すると、


 「タクヤくん」

 「は、はい」


再びアスカさんの口が開いた。目を見ると決して流すまいと我慢していながらも、今にも溢れそうな涙をそこに溜めながら僕を見つめていた。


 「少なくともキミには可能性がある。それはキミにしかない財産なんだ。私だってもし肩や膝が今も思うように動くなら、プロを目指していたかもしれない」

 「え? アスカさんが?」

 「ふふ、やっぱりキミは私のこと、何も知らなかったんだね。まぁ知ってるわけないか。私もね、小学生の頃から高校の真ん中までバレーをしてたんだ。だから色々詳しい情報とか持ってるんだよ」


優しく頬を撫でてからアスカさんは僕の頬から両手を離した。


 「タクヤくんはね、甘えているだけ。楽がしたいだけ。いつだって自分が傷つかない所へ向かっているんだと思うんだ。傷がつかなくて自分の好きなことが出来る環境に身を置いているんだと思う。どう?」

 「……当たってます」


アスカさんが放った言葉は的の中心を射抜いたように心に刺さった。


 「私だって一度、社会や周りの環境から距離を置いた人間だし、友達の弟にこんなにとやかく言う資格なんてないのなんて分かってる。けど、いつかは言うことが必要だなとも思ってたんだ。それがちょうどこのタイミングだったのかもね」

 「おれだって出来ることなら、昔みたいにバレーをやってて最高の瞬間を味わいたいって思ったりしますよ。けど、もう遅いんです。時間は止まったりしない。世代は次から次へと変わっていくんです。おれなんかが今更頑張ったって何も出来ませんよ」


再び部屋に沈黙が訪れた。今度はその静寂が嫌だったのか、それをかき消すようにアスカさんが喉を鳴らして僕のジンジャーエールを飲んだ。


 「じゃあさ、今度私と賭けをしない?」

 「か、賭けですか?」

 「うん。次の大会でさ、もしタクヤくんのチームが優勝したら、今より上のレベルのバレーに挑戦する姿勢を見せて」

 「え?」

 「ただし、一切手を抜いたらダメだから。そういうのは私、見たらすぐ分かるからね」

 「何ですかそのルール」

 「次の大会はいつあるの?」

 「12月の真ん中ぐらいにありますね」

 「ふふ、もう押さえました」

 「見に来るんですか?」

 「え? もう公認だと思ってたんだけど」


張り詰めた空気が一変し、アスカさんの笑い声と一緒にいつもと同じような空間が戻ってきたような感覚になった。僕は安堵し、ジンジャーエールに口をつけた。


 「いい? 約束ね。気になる女の子にも良いところ見せないと」

 「な、何言ってんすか!?」

 「ふふ、私の勘違いかな」



 それから僕は自分の車で家に帰った。泊まっていってもいいという衝撃的な一言が僕に向けられたが、流石に僕も男女が同じ屋根の下で寝るのなら何が起こるのかは分からないので、まだ月が空でくつろいでいる時間に僕はアパートへ帰った。次の日起きる頃には、アスカさんと晩酌をした記憶は残っているものの、長い時間何を話していたか曖昧な部分も多くあった。ただ、それでもアスカさんと交わした賭けの件や、アスカさんに言われたことは鮮明に頭の中の引き出しにしまってあった。そしてそれを大事にそのまましまっておこうと僕は決めた。

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