第33話
私たちは船内で一泊することになるが、安眠に
寝つけないという意味ではない。
日暮匡がカノンと連絡を取ったのはフェリーが出発する直前だったが、カノンの刺客が絶対にフェリーに乗り込んでいないとは言いきれない。
それに、日暮匡の挙動が不自然極まりない。
「すまない。トイレに行ってくる」
日暮匡はそう言っては、何度も席を立った。理を探しているのだ。
おそらく、今日の接触によって理は日暮匡に自分への殺意を
しかし、理はいったい何を考えているのか。
もう日暮匡はカノンに理の殺人依頼を出している。そして理はそれを知っている。それなのにこれ以上彼を
もしこの船内にて日暮匡を殺人未遂で捕らえることになっては、カノンを誘き出すという、理自身が立てた元々の作戦が台無しになってしまうではないか。
まったく、本当に、理は何を考えているのか。
私は寝台で横になり、日暮匡の気配に注意を傾けた。カーテンの向こう側では、私が眠ったかどうか気配を探っている様子だった。
私の寝息っぽい呼吸音が聞こえたためか、日暮匡はカーテンを開けて確かめることもせずに私が寝入っていると判断したようで、
日暮匡、彼は理を殺す気だ。
一分だけおいてから私も靴を履いた。
日暮匡の殺意を煽っておいてのんきに寝ているとは思えないが、あの馬鹿の考えることは妻の私ですら想像が及ばないので、日暮匡よりも先に理を見つけ、日暮匡を警戒しなければならない。
さて、理はどこにいるだろう。
特定の人物がどこで寝ているかを突きとめたいならば、各寝台区画の扉を少しだけ開けて、その区画に本人の姿がないか、なければ閉じられたカーテンの下にその人物が履いていた靴がないかを確認していけばいい。
本人もおらず、靴もないならば、展望室、レストラン、風呂、そのほかの共有施設にいるだろう。
しかし理の場合は、日暮匡をけしかけた身である以上、普通に探して見つかるような場所にいるはずがない。
人が寄りつかない場所に隠れているに違いないのだ。
車輌甲板か、トイレの個室か……。いや、理が隠れるとしたら、もっと思いもよらない場所に違いない。
船員に
ふふっ。
私は自分の思いつき得るすべての場所を探した。
さすがにブリッジには入らなかったが、室内、室外をくまなく探しても、理の姿は見当たらなかった。
すべての寝台区画を覗きもしたが、どこにも理の姿はなかったし、靴も見つからなかった。
自分の寝台へ戻ると、日暮匡は先に戻ってきていた。二段重ねになっている寝台の下段が日暮匡の寝台である。
下段の寝台はもうカーテンが閉まっており、その下に靴がそろえられていた。私も靴を脱ぎ、
体重が寝台に乗りきったところで、開いていたカーテンに手を伸ばし、ひとなぎに折り目を伸ばした。
そこで私は息をのむとともに硬直した。
「よお」
探し人はそこにいた。
理は部屋の入り口側の壁に背をつけていて、入り口からは見えないし、梯子は寝台の入り口から遠いほうの端に備えつけてあったため、カーテンを閉めるまでそちらに視線が及ぶことはなかった。
「もう、いったい何の用なのよ。どこにいたの?」
「先に場所を移そうぜ」
「どこに? どこにいてもこの人に見られる可能性が
私が寝台の下を指さしてそう言うと、理は口に人差し指を当て、私の隣を器用に通り抜け、静かに梯子を降りた。
私も理の後に続き、梯子を降りる。
扉を静かに開けて寝台室から抜け出すと、理は二つ隣の寝台室へと入った。今度は忍ばず堂々と入っていった。たしか、ここは一室を一組の大家族が占拠していたはずだった。
「あ、船橋さんだ」
「おかえり」
「おかえりなさい」
理の姿を見た三人の子供たちが寄ってきた。いちばん小さい子はまだ小学生にもなっていなさそうな年頃で、飛び跳ねながら理を出迎えていた。
彼らの両親と、一人の老人も笑顔で理を迎え入れた。
「ただいま。あ、こちらは私の妻です」
「どうも……」
どうやったらこんな大家族に取り入ることができるのかと不思議に思っていたら、子供の一人が理にトランプを差し出した。
「ねえねえ、船橋さん。また見せて」
「私も見たい!」
「僕もー」
理はトランプマジックで子供たちを
やんちゃな子供が三人もいれば、親御さんも面倒を見るのは大変だ。理はその三人を一度に相手にしているのだから、彼らの両親は大助かりで、理に好意を
私と理が会話できるようになったのは、三人の子供たちが床に
「あんたのって
「そんな無理に憎まれ口を叩かなくてもいいじゃないか。本職じゃないんだから、べつに何を言われようと響かないぜ」
それもそうだ。きっと理に対する
「あんた、いままでどこにいたの?」
「ここさ」
もちろん、理が見つからなかったのは、偶然見落としたとか、すれ違いになったとかではない。
理は
入口から覗いただけでは、誰もいない空きの寝台にしか見えない。そして、あえて同室に別の客がいる部屋を選ぶことで、捜索人が中まで入っていきづらい雰囲気を作る。
それに、靴を寝台に上げて壁に張りついていたら、他の客が
しかし理は、先にここの大家族と仲良くなって、自分がいないフリをするのに協力するよう頼んだのだ。
「で、何の用? 私の寝台に来ていたんだから、私に何か用があったんでしょう?」
「栗田から聞いていると思うが、日暮匡がカノンに俺を殺す依頼を出した。それでカノンが俺を殺しにくるのは俺の狙いどおりだったが、カノンは先に日暮匡に接触すると言っていた。優子、おそらくカノンはおまえの顔を知っているぞ。カノンが日暮匡の隣にいるおまえを見たら、間違いなく俺より先におまえを殺しにかかる。だから……」
私に手を引け、と言いたいのだろう。
それはいままでも理が言ってきていたことだが、事情が変わったいま、その言葉の重みも変わった。
危険性が危機に変わった。日暮匡に殺される危険性から、私がカノンに狙われる危機へと。
「ちょうどいいわ。私がカノンを直接捕まえる。あんたがやろうとしていたようにね」
理がカノンに狙われる危機は回避されていない。だから私はここで引き下がるわけにはいかないのだ。
カノンにとって不測の事態である私がターゲットでいるほうが、カノンの腕を
むしろ、ここからは理が私に協力すべきだ。
「私の気持ちが分かったかしら」
「ああ、分かったさ。だから……」
「それは嘘よね? 分かったんじゃなくて、分かっていたんでしょう? 何にしても、私が
「カノンは用心深い。日暮匡と協力して俺を殺しにくる算段だが、肝心の日暮匡が
理は深読みしすぎている気がするが、それ以上に……。
「残酷ね。でも、どうかしら。あんたのやり方が残酷ってだけで済めばいいけれど。
いまの言葉を聞いた理が吹き出して、私は少し恥ずかしくなった。
「なによ」
「ククッ、べつにィ」
「言い回しがキザだって言いたいの? あんたのほうがいつもそんな感じのことを言っているじゃない!」
理は性根の腐ったチンピラみたいにニヤニヤしている。腹立たしい。
「なるほど、俺の真似をしたってことか。人が誰かを真似するのは、真似する相手に憧れを
「少しばかりたしなんだ程度で、素人が心理学を語るなんて
「まあ、それは置いといて、さっき俺が笑ったのはな、おまえが俺のことを残酷だなんて言うからだよ。真正面から挑発して殺意を引き出す俺に対し、恋人に成りすまして利用できるだけ利用するやり方のおまえが、『残酷ね』なーんて言うもんだからさ。片腹痛くってね」
ムッとして私は理の肩を
予想以上に理が痛がったので、少しだけ私の気も晴れた。
「とにかく、私は
理は棚に上げてあった靴を手に取り、代わりに溜息をそこへ置いた。靴を履くと、のっそりと立ち上がり、少しかがんで私の顔を覗き込み言った。
「俺はいったい何と戦っているんだか」
どうやら理は早くももう次の対応を決めたらしい。
彼の言葉が不安をかき立てる。いったい何をする気なのか。いったい何をしでかすのか。
「ヤケになって無茶やらないでよね」
「ヤケにはならないさ。俺はいつもどおりに俺のやり方で敵の意表を突くだけだ。ま、おまえなんかはそれを見て無茶苦茶だとか言ったりするんだろうけどさ」
理が出ていき、私も自分の寝台へと戻っていった。
翌朝、私は時限式の振動によって浅い眠りから起こされた。日暮匡はまだ寝ているようだ。
いかなるときでも、彼の意識がある間は私も意識をはっきりとさせておかなければならない。
もしも勝手に荷物を見られたら、探偵用小道具が見つかるかもしれない。
彼がこれまで何度も嘘をついていることを確認しているし、
警戒を
私は洗面等を手早く済ませ、日暮匡が起きるのを待った。
起きたばかりの彼は、敵が船内にいるというのにまるで緊張感が見られなかった。お気楽なものだ。
私が「おはよう」と声をかけると、一秒の間に慌てて顔をこすり髪に
私は本を読むフリをして日暮匡の挙動を観察した。
どうやら理を見つけることは
洗面を終えた日暮匡は、逃亡経路の変更を私に伝えてきた。
もちろん私は栗田君の電話ですでにその情報を得ている。
そして、その経路変更が決定したのがフェリーの乗船手続きのときだということも知っている。
なぜすぐに教えてくれなかったのか。なぜこのタイミングで彼はそれを私に伝えてきたのか。何か意図があるのだろうか。私は信頼されていない? もしかして、密偵だと疑われている? それとも忘れていただけ?
とにかく、警戒していることを悟られないように警戒を続けなければならない。
「あ、そろそろ着くみたい」
13時。下船の時刻が近づき、船内にそれを知らせる音楽とアナウンスが響く。
今日はいまに至るまで、日暮匡はとくに目立った行動を起こさなかったし、理も一度も姿を見せなかった。
私たちは発信器が付けられていないか確認してから日暮匡の車に乗車した。
私たちがこの後どういう経路を辿るのかを理は知っている。その事実を私は知っている。
だから発信器を探すことはまったくの無意味なのだが、私たちの逃亡経路を理が知っていることを私が知っていると日暮匡に知られるわけにはいかない。
私は日暮匡が命を狙われていると信じ込まされている人間の行動をとらなければならない。
え、ややこしい? もう一度説明しましょうか? はあ、構いませんか。
では続けますね。
乗車後、日暮匡がおもむろにカーナビの五十音検索機能を使いはじめたので、私はそれを制止した。
「追っ手がどこからか見ているかもしれないわ。目的地の入力はしばらくデタラメに走行して、きっちり追っ手をまいてからにしましょう」
もちろん、これも無駄な行為なのだが、念押しの演技として、私はそうすることを選択した。
「うむ、そうだな」
私たちはフェリーを出て、四国の大地をタイヤで踏みしめた。
あ、この後、特筆すべき話もないので、ちょっと飛ばしますね。
えっと、高速で愛媛・
では、その続きから話しますね。
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