第32話
やがて乗船時間となり、私たちは係員の誘導に従い、船内へと車を乗り入れた。
私は
室内も
敵に見つかり難いが、敵の存在に気づきにくい場所とどちらがよいかといえば、私なら後者を選ぶ。
前者の場合、敵はターゲットが人目のない場所に移動してから襲うのが普通だ。だったら見つかる可能性が低いほうがいいに決まっている。
もっとも、本当は襲われる心配なんてない日暮匡の立場からすれば、この広い展望室は敵を発見するというメリットのほうが大きく、場所の選択としては正解だろう。
しかしこの場所は、命を狙われている身である人間を演じている身としては、不正解に違いなかった。
私がイージーチェアに腰を下ろしてからすぐに、マナーモードの携帯電話がブルブルと震えて、私の体に密着させていた鞄から振動が伝わってきた。
栗田君からメールが来たのかと思ったが、振動は設定した時間を経過しても止まらなかった。
「あ、ごめんなさい。ちょっと電話……」
私は鞄の内ポケットから携帯電話を取り出しつつ、展望室を出た。
きっと
「はい、もしもし」
「栗田だ」
私は振り返り、日暮匡が近くにいないことを確認した。
語気を強め、
「連絡はメールでって言ったでしょう? 私がどういう状況にあるかも把握しているはずよ。どういうつもり?」
「悪いな。これは
理の嫌がらせという確信は外れてはいなかった。
栗田君は私のサポートに徹しているわけではなく、カノンを捉える私たち――私、あるいは理――に手を貸しているにすぎない。
つまり、仕事の分担を振られたら、実直にそれをこなす。船橋探偵事務所の一員としての責務をただまっとうしているだけ。
彼は鳥と獣の狭間を都合よく往来するコウモリではない。むしろ、二つの種族が彼を取り合っていて、その彼自身はそれを
だから、彼に文句を言うのはナンセンスというものだ。
彼が味方であると同時に敵であることは、私も理も彼にそれを望んでいるからで、だから彼もそのような立ち位置に帰結している。
もちろん、自分だけの味方をしてくれれば、それが最もありがたい。だが彼は「いくら仕事が
あまりワガママを言うことはできない。
正面からライダースーツの男が近寄ってくる。
いや、何食わぬ顔で私の横を通りすぎていく。
いや、それも違った。
彼はすれ違いざまにニッと笑い、左手を顔の高さまで挙げた。バトンタッチ、とでも言いたげだった。
私は後ろを振り返り、日暮匡がこちらを見ていないことを確認してから、自分の左手に握った拳を理の左手に強めに打ちつけた。
溜息を
理を見送った私は、日暮匡に対して完全に死角となる位置にあるスツールに腰掛けた。
「分かったわ。理が戻るまで私はここで待機する。その代わり、理から何か情報を聞いていたら教えてほしいのだけれど」
「ああ、いいだろう。船橋は日暮匡とカノンとの会話を聞き取ることに成功した。録音もしてあるから、これは証拠としての収穫でもある。その内容だが、日暮匡がカノンに船橋の暗殺を依頼し、カノンはそれを
所感を述べて警告までしてくれるとは優しいものだ。
彼の口調はいついかなるときも終始変わらないので、彼が何を考え、どう感じているのか、私には想像で
「日暮匡がカノンにどこまで逃亡経路を明かしているか分かる?」
「全部だ。だがおまえの計画は、少しだが、勝手に変更されているようだぞ」
「私は何も聞いていないわ。どんなふうに変更されているの?」
「福岡空港を目指すまでの経路が少しだけな。四国で港を変え、フェリーを乗り換えることになっている。それよりも、重要なのはこっちだ。カノンは福岡空港で日暮匡に接触すると言っているが、待ち合わせなどせず、一方的に見つけだすという話だ」
「そう……」
日暮匡は私のことをどうするつもりなのだろう。
船橋探偵事務所の一員である私を、カノンが知らないなんてことがあるだろうか。
苗字と名前を同じにする偽名は、あらかじめ知らされていなくても、私たち三人のうちの誰かが使っている偽名と分かるようにするための船橋探偵事務所のルールの一つだ。
もしかしたら、カノンはそのことすら知っている可能性がある。
まあ、偽名の命名法はそれに限らないから、よほど私たちを警戒して研究していなければ気づかれないとは思うが。
名前についてはまだいい。けれど顔は駄目だ。
私と理は過去にさんざん暴れているので、顔と本名が同業者にも敵対勢力にも広く知れ渡っている。
私が日暮匡の相手をしていて自由に動けないところを、自由に動けるカノンに一方的に発見される可能性が高い。
そうなると、カノンの逃亡を許してしまうか、あるいは私まで殺害のターゲット入りを果たしてしまうかもしれない。
もしも突然、私がカノンに襲われたとしたら、日暮匡はどう動くだろう。
彼の初動意思はカノンの助力ではなく私をかばうものとなるだろうが、臆病な彼が実際にかばってくれるとはとうてい思えない。
私が自力でカノンの奇襲を回避できたとして、カノンが真実を口にしたとき、日暮匡は私とカノン、どちらの言葉を信じるだろうか。
それはカノンが優勢な気がする。利害にもとづく関係のほうが信頼性が高いからだ。それは人と人との信頼という意味ではなく、真実の判断材料としての信頼度という意味だ。
日暮匡の行動原理は情念ではなく理屈にもとづく。
私とカノンが対面し、互いに
そうでなかった場合には、やはり私をかばうよりもカノンを手伝う
「佐藤。
「そうね。お願いするわ。どうせ理の用事はまだ終わらないのでしょう?」
栗田君は返事もよこさず、心の準備を
『――とは殺人依頼か? 依頼料に納得した上での依頼だろうな?』
『もちろんだ。人生と小指一本とでは重みが違いすぎる。金への執着もない。依頼料を踏み倒したりはしないから、確実に仕事をしてくれ』
『無論だ。それで、ターゲットは?』
『船橋理。探偵だ。ネットで調べれば名前が出てくる。この私は奴に――』
『待て。船橋理だと? なんてことだ……』
『どうした?』
『船橋理は知っている。我々裏社会の人間が最も関わりたくない男だ。あんたの口からその名が出たということは、奴はすでに俺のことを
『……まさか、引き受けられないとでも言うつもりか?』
『いや、逆だ。もはや引き受けざるを得ない。確実に始末しておかなければならん。だが、この相手にはかなり手を焼くことになる。俺は単独でこの稼業をやっているが、今回ばかりは人の手がいる。あんたの協力も必要だ』
『協力? ああ、奴を消してくれるなら、いくらでも協力する。何をすればいい?』
『まずは説明してくれ。おまえが船橋理との関わりを持った経緯と、現在の状況を。できるだけ詳細に』
ここで日暮匡が
『船橋理はいまはついてきていない。この私の協力が必要ならば、このプランは変更する必要があるだろうね?』
『ああ、そうだな。船橋理はおそらくおまえの近くにいる。おまえの乗るフェリーは徳島を経由するはずだ。フェリーは徳島で降りて、船橋理を完全にまいた後、愛媛から大分までのフェリーに乗れ。愛媛の港は
『分かった。ただ、
『それはあんたがなんとかしろ。俺としても、情報を得て性格と能力に十分な信用が置けると判断できた人間しか使えない』
『ああ、美咲のことはこの私がなんとかしよう。合流地点にはこの私が一人で向かう』
『いや、不自然な行動は起こすな。俺があんたを見つけだす』
『分かった。この私と美咲は自然な流れに任せて福岡から北海道まで飛ぶから、接触のタイミングと方法は任せる。よろしく頼むぞ』
日暮匡とカノンの会話の再生が終了すると、栗田君は一言、「以上だ」とだけ言った。
「ありがとう。もう
「そうか。もう切るぞ。あとは船橋が戻るのを待て。もうじき戻るはずだ」
「ええ」
そこで電話は切られた。
その後、理が戻ってくるまでには数分を要したが、いつもデートで待たされていた時間ほどは待たなくて済んだ。
ガラスにうっすらと反射する理の姿を確認し、立ち上がる。
私が理とすれ違うとき、日暮匡はこちらを見ていた。
理はキャップを
「お待たせ。あら、どうしたの? そんな怖い顔をして」
「あ、いや、すまない。何でもない」
「そう? ならいいけれど……」
日暮匡の様子は正常じゃない。理はいったいどんな話をしたのだろう。
すでに日暮匡はカノンに理の殺害依頼を出している。もうこれ以上、日暮匡に接触する意味はないはずだ。
私の思考がそこに及んだところで、理のあの表情が脳裏をよぎった。
手のひらと拳とでバトンタッチしたときの、あの表情。
それはスリルを
理は日暮匡に潜在する
日暮匡がカノンのような危険人物としてのポテンシャルを秘めていると、理はそう考えているのかもしれない。
私はこれまでずっと日暮匡を観察してきた。
彼はすでに人を一人殺しているが、そのことに対する罪悪感を
もし彼が逮捕された後、真なる殺意とその実行意志に目覚める可能性を考慮すれば、彼の罪を重くして刑を長くしたほうが、世の安全性は高まるだろう。
それが理の狙いに違いない。
いや、でも、案外……。
理は日暮匡を挑発して愉しんでいるだけの可能性も捨てきれない。
だから私はこうも思いやられているのだ。
最終的には私と理は協力し合うことになるだろうが、真面目な私が理のお遊びに付き合ってしまったら、私は道化を演じるおバカさんになってしまう。
船橋理。
少しは彼の大好きなミステリー小説の主人公たちを見習ってほしいものだ。
犯人を突きとめた後、彼らは犯人を改心させようと説法を説くのが通例だ。
それがうまくいくにせよ、いかないにせよ、理にはそういう努力をしてほしい。
そろそろ「
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