第10話

 またしても船橋ふなはしさとるから音沙汰がないまま一週間が経過した。

 拍子抜け。

 肩透かし。

 捜査は続行すると宣言したくせに、奴はいったい何をしているのか。


 しかし、そんなことはどうでもよい。


 今日はこの私にとって重要な日である。

 先日、みさき美咲みさきと食事の約束を交わしたのであるが、今日がその約束の日なのだ。この私は岬美咲をイタリアンのおいしいレストランにエスコートしなければならない。


 この私は岬美咲に指定された駅まで車を走らせた。

 この私の車はリアウイングのついた青の格好良いスポーツカー (となる予定)であるが、いまは手元に白の軽自動車しかないため、それを使わざるを得ない。

 岬美咲には申し訳ないが、我慢してもらうしかない。

 その分、イタリアンの味は保証できる。この私が技術を出し惜しみせずに調理する品にも引けをとらない素晴らしい品目がそろっている。

 店の雰囲気も申し分ない。

 夏至げしを過ぎて一ヶ月強しか経たないこの時期は、かなり日が長いが、店に着くころには程よく日も傾いているだろう。


 駅ではすでに岬美咲が待っていた。

 そでにフリルのついた白のブラウスと、膝丈の黒いフレアスカート、それからキャラメル色のパンプス。小さなハンドバッグを持った手を前で重ねた上品な格好で待っていた。

 この私は約束の時間の十分前に着いたが、彼女はそれ以上前から待っていたということだ。なんと殊勝しゅしょうな娘なのだ。やはりこの私が見込んだだけのことはある。


 この私は彼女の前に車を停めて助手席のドアを開けた。するととんでもない熱気が押し寄せてきた。

 こんな環境下にうら若く高貴な淑女しゅくじょを待たせてしまうとは。紳士として配慮の欠如に悔恨かいこんきんじえない。もう五分は早く来るべきであった。

 しかしながらこの私が熱気に気圧けおされひるんだのは一瞬のことであった。

 熱気の後に車に乗り込んでくる岬美咲の清楚で上品な微笑は、清涼感さえ覚えるほど清々すがすがしくさわやかであった。


 ゴチッ。


 岬美咲がひたいを打った。

 車に乗り込もうと上げた足が車体にひっかかったのが原因だ。


「大丈夫かね?」


「ええ、ごめんなさい。私は大丈夫です」


 岬美咲がこの私の隣に座った。

 少々ドジの気配もただよわせるが、彼女から漂ってくる甘美かんびな香りがそれを包み込んで消してしまった。

 この私の視界がかすむ。

 感激して涙がにじんだか。いや、そうじゃない。涙ではない。

 岬美咲がこの私の目に映ったとたん、この私の視界が白くかすみがかってしまうのだ。視界の縁を白いモヤが覆ってしまい、視界が狭くなる。目の前の景色が正しい色を主張しなくなる。


 待て! この私としたことが、舞い上がってしまったではないか。

 彼女がこの私を盲目もうもくにするほどの美貌びぼうを備えているのは事実であるが、彼女が完全に非凡夫と確定したわけではない。

 見極めなければならぬ。

 用心深いこの私は、彼女が非凡夫であるという確信を確証によって裏づけするまでは、彼女に気を許すわけにはいかぬ。


「こんにちは。今日はよろしくお願いします」


 最初に開花したサクラを想起させるしっとりとした薄紅うすべにくちびると、大樹となるべく芽吹いたばかりの苗木なえぎ色の瞳とで、岬美咲はこの私にニッコリと微笑みかけてくれた。


「うむ」


 落ち着くのだ、この私。口下手がすぎるぞ。

 彼女の器量をはかっている場合ではない。この私にふさわしい女性などそうそう現れないのだ。

 ひとまずは彼女が非凡夫であると仮定し、この私は彼女とのこの巡り合わせを大事にしなければならぬ。


 おっと、おまえたちに言っておくぞ。この私は動揺どうようなどしていない。この私が緊張などするはずがない。

 その証拠に、車中で万が一にも沈黙に制圧されるようなことがあってはならぬと、この私はあらかじめ話の種を考えておいた。

 それは話題作りの材料であると同時に彼女のことを知るための手段でもあるのだ。


 この私は車を発進させてから、想定したシナリオを実現すべく台詞せりふを回した。


「岬さん、君は何を生業なりわいとしているのだ?」


「職業ですか? 経営コンサルタントです。最近、独立したばかりですけれどね」


 岬美咲が天使のように慈悲深い笑みを浮かべたようだったが、見逃してしまった。

 この私は運転中なのだ。仕方がない。

 しかし直視せずとも、知的な女性の輝きというのは、その気配を肌に感じることができる。


「ほう、バリバリのキャリアーウーマンというわけだ」


「いえいえ、私なんか未熟者です」


「いやいや、なかなか様になっていると思うがね。若いながらに貫禄かんろくを漂わせているよ。失礼ながら、年齢をいてもよろしいかな?」


 とにかくめる。相手が謙遜けんそんしても、褒めつらぬかねばならぬ。この私との会話を楽しいと感じてもらわねばならぬのだ。

 それから、未熟という言葉に関連させたように見せ、気になっていた年齢を聞きだす。若い女性ならば年齢を訊かれても抵抗はないはずだ。


「ええ、かまいませんよ。私は27です」


「それは意外だ。少なくともあと5歳は若く見える」


 実際にもっと若いと踏んでいたが、この私に年齢が近いのなら、そのほうが進展が見込めるというものだ。

 女性の27歳ともなれば、己の将来について真剣に考えだすころではなかろうか。


「そうですか? ありがとうございます。日暮ひぐらしさんはおいくつなんですか?」


「34だ」


「そうなんですか。日暮さんももっと若く見えますよ。誕生日はいつなんですか?」


 岬美咲のほうから新規に出た質問。建前性の高いオウム返しの質問ではなく、自ら相手を知ろうと新たな質問をしてきたのだ。

 それはつまり、彼女もこの私について知りたいと思っているということ。

 いまのところ、好感触のようである。


「11月29日だ」


「あ、私も11月生まれなんですよ。11月2日。奇遇ですね」


「うむ、たしかに。12分の1の確率だ」


 運命的! などと感じているかもしれない。

 そうであればラッキーだ。

 この私自身は運命――あらかじめ決まっている未来や縁――というものをまるで信じていない。未来というのはこの私が操作して方向づけしていくものだ。

 運命を信じるくらいなら、その信仰心をもって、この私を神とあがめてほしいものだとさえ思う。


「日暮さんは何のお仕事をされているんですか?」


「食品会社につとめている」


「ははぁ、食品会社ですか? 食品会社はどこも大変だと聞きます。所属はどちらですか?」


「所属? この私の会社が分かるのかね?」


 まさか、うちの会社にコンサルタントとして来たことがあるわけではあるまいな?


「いえ、開発、製造、営業といった大まかな分類のことです」


「この私は品質保証部に所属している。日々、分析などをおこなっているよ」


「そっか、品質保証がありましたね。とても重要な分野です。私は日暮さんは開発の方だと予想していましたけれど、外れてしまいました」


 岬美咲のしゅんとした様子が愛らしい。運転中で脳裏に焼きつけられるほど見られないのが残念でならない。


「それは惜しかった。まあ、どちらも理系のく部門で、やることも似たようなものだ。この私はとりわけ数学が得意でね。生み出す開発部門よりも、導き出す品質管理部門のほうが性に合っているのだよ」


 岬美咲、なかなかの洞察力どうさつりょくだ。経営コンサルタントをいとなんでいるだけのことはある。もちろん、この私にとっては初歩的なことではあるが。


 うちの会社では製造はすべて下請けの工場に任せており、そこの従業員はほとんどがアルバイトだ。高卒、ヤンキー、大学中退などの野蛮な連中が大半を占めている。

 一方の営業は快活なわりに腰の低い連中ばかりだ。

 開発や品質保証は高学歴ながら神経質でプライドの高い者が多い。


「そうなんですか。数学では何がいちばん得意なんですか?」


 おっと、思わぬところで食いついてきた。経営コンサルタントの岬美咲は十中八九文系だから、この私は反対に理系の極値きょくちたる数学が得意だと言ったのだ。

 数学が得意だと言えば、たいていの文系の者は、それだけで尊敬の眼差しを送ってくる。滑稽こっけいですらあるほど単純だ。

 つまり、この私が数学が得意などというのは嘘だ。

 得意科目などない。

 あんまり嘘を重ねるとボロが出かねないため、ここはうまく誤魔化さなければならぬだろう。

 数学には何があったかな? 微積分、三角関数、行列、ベクトル解析、複素数、確率論……。

 分野の大小がごちゃ混ぜになっているかもしれないが、すぐに思い出せるのはこれくらいだ。

 しかしどれも得意ではない。

 そうだ、一つだけあった。


「うむ、この私は円周率が好きでね。人が覚えていないけたまで覚えているぞ」


「へぇ、すごーい! 私、数字に強い人ってすごく尊敬します。円周率、言ってみてもらってもいいですか?」


 敬意をもって人と接することはよいことだ。それができる彼女は素晴らしい女性だ。

 しかし数字に強いというだけでこの私をめすぎではないか? 

 こんなことでは彼女が馬鹿に見えてしまう。

 彼女は経営コンサルタントなのだ。それなのに数字に強いくらいで人を尊敬してしまうのか? 

 いや、だからこそかもしれない。

 尊敬する恩師が数字に強かったのかもしれないし、指導するクライアントが数字に弱すぎて辟易へきえきしていたのかもしれない。

 あるいは、無理して褒めているのかもしれない。そうだとすれば、それは彼女のこの私に対する好意の表れであると受け取ることもできる。


「うむ、よい。では述べよう。3.141592653589385……と、この私が言えるのはここまでだ」


 ま、最後のほうは口から出まかせなのだが。

 おっと、この私は単に見栄みえを張って桁数を水増ししたわけではないぞ。

 では何のためか? 

 ふん、おまえたちなんぞに言うものか。をわきまえよ!


「あー、すごい! 私の同僚にも円周率を多く言えるっていう人がいるんですけど、その人は日暮さんの半分も言えませんでしたよ」


「まあ、この私に肩を並べられる者など、そうはおるまいよ。語呂合わせで覚えて書き取りなら多くできるという者は多いが、この私のように口頭で数字を暗唱できる者は少ないのだ」


 うむ、思ったよりも会話がはずんでいる。人見知りであるこの私にしてはよく話せている。車内の楽しい雰囲気作りという第一関門は、突破したものと見なしてよかろう。

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