居酒屋
飲み街に立ち並ぶ一角の小さな居酒屋は、吹けば飛ぶような見た目をしているが、案外台風のような強風でも、たてつけの悪い引き戸が連れ去られることはないらしい。借金取りが詰め寄ってでもいるかのごとく雨風に叩かれ、ビョウビョウと叫んでいる。今にも倒れてしまいそうだ。
スーツを着た二人の男は、ぼんやりとどこか他人事のように、雨水が下の隙間から侵入してくる入り口を見つめていた。
腕まくりをしている男が、チマと口にお猪口運ぶ。セットしていた髪が酔いのせいかやや乱れ、それが隙間風に揺れる。
「すんごい風」
「電車動くかな」
背広を着こんだままの男は、戸を越して、外に思いを馳せている。
「終電まで様子見だろうな」
だいぶ酒もすすみ、頼んだつまみの皿も空き始めている。
この調子では、雨宿りにも客は来ないだろう。居酒屋を追い出されるのも、時間の問題だ。
「お前んち近いっけ」
腕まくりの男は、ツマを割箸で突く背広の男に問いかける。
「いや、もう引っ越したから」
「そうか、もう結構経つもんな」
うん、と彼が返したきり、会話は止まった。
雨と風はしきりに吹きつけている。居酒屋の小さなテレビの笑い声が、戸の軋む音に混じり、二人の耳に届いた。
腕まくりの男は、視線を向かいの男に向ける。おしぼりの入っていたビニール袋をよじって、やや眠たそうな顔で唇を尖らせていた。
「あのさ、じゃあ、もう捨てた?」
「……何を?」
問いかけに、背広の男は顔をあげる。
「その……昔あげたやつ」
「いっぱいもらったから」
背広の男はかすかに微笑を浮かべる。
わかっていってやがる、と、腕まくりの男は眉をひそめる。過ぎたはずの酔いがぶり返したように、頬が熱い。
「……指輪」
雨の音が弱まる。一瞬の静寂と、バラエティのBGM。奥の畳で一本締めの音が聞こえた。
ビニール袋の両端を持ち、指先でクルクルと細くして、背広の男は口を開いた。
「ある」
「あんのかよ〜〜〜〜」
狭いテーブルの端に突っ伏し、まくった袖からのぞく肌を懸命に掻いた。
「捨てられないって」
背広の男が肩をすくめて笑うのを聞いて、埋めた顔を歪ませる。こう口にしても、全く引きずったところがなく、ただ、物持ちがいいだけの男だという事実が本当に腹が立つ。気にしているのは自分だけじゃないか。
「売れよ」
「そうしてもよかったんだけどね」
突っ伏している彼の左手を取り、薬指の根元に触れる。先ほど細くしていたビニールを薬指に巻きつけ、緩く縛った。それから背広の彼は、肩を揺らして笑う。
「一生懸命だったからさー」
「忘れろってもう」
崩れかけの髪を完全にかき乱し、薬指のまとわりついたゴミに意識を向ける。くしゃくしゃで、なんの価値もない。ただ彼がつけたというだけの、それだけのことだ。
「無理だなあ」
背広の男はツマを食み、愉快そうに微笑んだ。
さっさと、このゴミを外さなければ、こいつのペースに引き戻されてしまう。だけど、躊躇する。男は眉間と唇に力を入れて、テーブルに項垂れ拳を握った。
「早く雨明けてくれ〜〜〜〜」
雨の音は強まり、ますます風が、戸を叩く。バラエティと背広の男の笑い声が被る。
ゴミの巻かれた薬指に、指の腹が這う感触がした。
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