シャワールーム
ホテルのシャワーはいい。たとえトイレつきユニットバスだとしても、シャワーの水を出しっぱなしにしていても、自分が水道代を払うわけではない。
蓋の閉じられたトイレに腰掛け、男はそう思った。ドラマの嘘の雨のように流れるシャワーと、それにうたれて項垂れる、幼馴染を眺めていた。バスタブの縁に身を預け、顔をうずめている。彼の体を伝い、指先から止めどなく水が流れ落ち、狭い排水溝をすり抜け男の足元にまで広がってくる。
シャワーの音に紛れ、項垂れていた彼はぽつりとつぶやいた。
「このホテルの部屋、前に心中事件があったらしい」
「そうか」
男がそれだけ返答すると、幼馴染は顔を上げる。飛沫が目に入ったのか、一瞬目を瞑る。それから男を睨みつけた。
「知ってたな?」
「人が寄りつかない、ちょうどいいだろ」
「男二人で来てたら目立つ」
萎れるようにバスタブに額をぶつけて呻く彼を横目に、男は爪の汚れを弾く。
「最近は珍しいことじゃない。サービス業なんざ特にそうだろ」
「世間を信用しすぎだ」
人工の雨の音が、バスタブの中に反響する。ぬるい湯気はすぐに冷えて、室内にゆっくり湿気が沈澱していく。
「そうだったらとっくに警察に行ってる」
男は、自身のワイシャツに視線を落とした。こびりついた泥と、乾いた血の跡を親指で拭う。湯気で湿った布に、少しだけ汚れが伸びる。
「どうしたらよかった?」
幼馴染がつぶやいた。指先がふやけるほど、シャワーを浴びているのに、割れた爪の先に入りこんだ泥はまだ落ちていない。洗面台に置かれた、血の汚れが消えないシャツと、泥で汚れたスラックスから、濁った水滴が滴り落ちていく。
「どうしようもなかった」
男は答える。
どうしようもない。世界はどうしようもないことしかない。
けれど、手っ取り早い方法はある。隠すだけで済むならば、何もなかったと同じ。これ以外がなかった、というだけだ。明日から自由だ。何も怯えることはないのに。
昔から優しいやつだったから、こいつはここまで落ちこむのだろう。幼馴染の変わらない時計回りのつむじを見つめ、そらす。男は口を開き、眠い口調で呟く。
「明日の朝食は何時だろう」
彼からの返事はなかった。
ポケットから煙草を取り出す。箱を開けた瞬間、なんとも湿気って閉まった気がする。
「タバコ吸っていいか」
「禁煙だよ、この部屋……」
彼の声は掠れていた。
有料の雨は、降り続いている。
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