第2話 神、神と戦う。

 天から降りた光の柱は、街から離れた央山の麓近くの森で途切れた。

 

 光の柱が消えたあと、進み出た鎧を身に纏う武神を見るなり、場に駆けつけた鵲梁じゃくりょうは頭を抱えたくなる。

 一国の将軍のような堂々たる出で立ちの青年が掲げているのは、黒い龍を掲げた旗であったからだ。

 

 黒い龍の旗を持つ神は、たった一柱しかいない。

 その名も、【屠龍真将とりゅうしんしょう】、りく天賀てんが

 

 かつて人の身で大河を溢れさせた暴れ龍を退治し、その功績と逸話を以て神となった武神将軍である。

 

 普通の道士だった鵲梁からすれば、遠すぎる世界を生きた神である。

 幸いなことに、降りてきた神は屠龍将軍本人ではなかった。阿丈から聞かされた外見と、一致しないのだ。

 

 恐らく、その部下にあたる眷属神けんぞくしんだろう。

 それでも、磨かれてきらめく鎧を身に着け、剣を腰に帯びた青年は堂々とした威風を背負い、紛れもない龍殺しの神旗を掲げていた。

 

 龍神が火柱を吹かせた土地に、武神の眷属神が降り立ったのだ。

 どう考えても穏やかなことにはならない。

 青年武神は、鵲梁の姿を見つけるや否や真っ直ぐに歩んで来た。

 意志の強さを表すような太い眉に、凛とした力がみなぎる黒の瞳の武神は、右の手のひらに左の拳を打ち付けてから口を開いた。

 

「あなたはこの央山州の神だろうか?名は何と言う?」

青義道人せいぎどうじん白鵲梁はくじゃくりょうだ。そういうそちらは、屠龍真将殿の者だろうか?」

「如何にも。私はりく海玄かいげん。央山の噴火を引き起こした龍神、龍公女の捕縛に来た」

 

 作法通りに礼を返してから、予想通りの応えに鵲梁は額を押さえて蹲りたくなった。

 しかし、背後にはついて来ると言い張って本当にぴったりついて来た少年、しょう歌雲かうんがいるのでそのような姿はさらせない。

 神や鬼を見抜く異能の眼を持って生まれたらしい少年は、目の前に降臨した青年武神に驚いているのか黙っていた。

 森へ入るまでも帰れ帰れと何度も繰り返したのだが、この歌雲はのらりくらりと言い立ててついて来てしまったのだ。

 視鬼の眼を持っているために、年齢にしては肝が太くなってしまったのだろうか。

 幸か不幸か、陸海玄は歌雲を気にも留めていないようだった。

 

「では陸殿と呼ばせてもらおう。陸殿、龍公女は確かに山を破裂させたが、命は奪っておらぬ。ただ抑えきれぬ想いが噴き出ただけで、今はひととき鎮まっている。ひっとらえて天界へ送るのは待ってくれまいか?」

「天界まで火を噴き上げておいてか?彼女は国を五つも滅ぼし、山へ封じられた悪神だ。捕らえることに躊躇いがあるのか?」

「龍公女の過去の所業について、俺は此度言い争わぬ。だが今回暴れたのには理由があるし、無理からぬことと俺は思っている。第一、彼女は地上の命には手を出しておらん。天界へ火を噴き上げたと言ったって、誰も死んではおらんだろう。龍殺しの武神を送っての捕縛は、乱暴だ」

「……だが、彼女は悪龍だ」

「お前たちにとってはそうでも、俺にとっては恩がある縁の深い者だ。捕らえさせるわけには行かぬし、俺は彼女を鎮める役を彼女自身から任された。恩ある者の頼みを、俺は断らん」

 

 海玄が、信用しかねるとばかりに鼻を鳴らした。

 龍殺しの武神に仕える者が、暴れた阿丈を警戒するのも無理はないのだが、鵲梁がこの二百年見て来た阿丈は癇癪持ちではあれど悪神として捕らえられた上で天界で処刑されるような者ではないのだ。

 

 龍殺しの武神に捕らえられて天界へ送られれば処刑もあり得る。

 

 ために、鵲梁も必死であった。

 歌雲を背中に庇い、龍剣の無丈むじょうを掴んだまま鵲梁は武神の前に立ち塞がる。

 その眼差しが気に入らなかったのか、海玄は横柄に腕を組んだ。

 

「お前が龍神を鎮める?馬鹿馬鹿しい。央山龍公女は捕らえて首を落とすべしと我らは常々思っていた。天界にも上がれぬ土着の下級神如きが、我ら屠龍殿の者に口を出すな」

「おっと、それは聞き捨てならないな」

 

 飄々と歌雲は口を挟み、鵲梁の影から出て一歩踏み出す。

 黒衣を着た細身の少年は、武神の視線を受けようが怯まなかった。

 

「青義道人は、央山州の僕たちにとって特別で大切な、唯一な神さ。下級神なんてとんでもない。ちゃんと天界へ昇れる神様だってことは、僕の眼でもわかることだ」

「おいこら少年!」

 

 まさか神同士の言い争いに口を挟んでくるとは思わず、泡を食った鵲梁が歌雲をもう一度背後に庇い直してみれば、少年は悪びれたふうもなくぺろりと舌を出した。

 しかも、賛同するかのように鵲梁の手の中で無丈が震え出し、さわさわと辺りの木々草花が風もないのに揺れ始めた。

 土地の精怪が、鵲梁たちに賛同の声を上げているのだ。

 海玄の眉の間が縮まる。

 

「あー、その、何だ。陸殿、子どもの言ったこと故、どうか怒らないでほしい。俺が言いたいのはな、この央山州は阿丈と俺と、土地の者たちでどうにかなっておる。屠龍将軍の手を借りるまでもないということだ。天へ帰って頂けないだろうか?」

「……なるほど、確かにあなたはこの土地では力ある神のようだ。しかし、武神でもない者の力は疑わしい。あなたには、龍公女の行いに対し、責任を取れるだけの力があるのか?」

「それは何かあったとき、俺に阿丈を殺して己も自刎しろということだな?」

「当然だ。責任を取ると言ったのだから」

『でしたら、心配ございません』

 

 きっぱりとした声を上げたのは、無丈である。

 

『私は龍公女・阿丈様からその力を分け与えられた剣にごさいます。私には阿丈様の逆鱗の力が封じられておりますので、私で阿丈様を刺せばあの方は死にまする』

「何⁉」

 

 今初めてその話を聞いた鵲梁も内心仰天だったが、さも当然の話であるかのように何食わぬ顔を保つ。

 

『如何でしょうか、陸小将軍?それでもお疑いならば、いっそこの場で剣にて手合わせを行えばよろしいかと。青義道人様は武神ではありませんが、護るために剣を扱える神でございます。戦う力を、お知りになりたいのでしょう?』

「……いいだろう。私を抑えられる力すらないならば、龍の剣があっても任せられない」

「そうだな。道理だ。では、やるか。少年、少し無丈を持って下がっていてくれ」

「うん、わかった。白兄さん、気をつけてね」

「応」

 

 無丈を歌雲の手に握らせ、鵲梁は背に吊っていた己の剣を抜く。

 青義道人の剣、【黒羽こくう】には特別な逸話はないが、折れず曲がらずよく斬れる黒い柄の両刃の剣で、人間時代から愛用しているものだ。

 十数歩の距離を開けて、鵲梁は海玄と向き合う。青年武神も己の剣を抜き、ぴたりと正面に構えた。

 

「では、いざ」

「ああ」

 

 直後、海玄かいげんの姿が鵲梁の前からかき消える。

 右に向けて無造作に片手で振った鵲梁の剣に、海玄の剣が衝突して火花が散った。

 力と気迫を込め、押し込もうとする海玄の前で、ふっと鵲梁は力を逆に抜いた。

 黒羽の刀身を縦にし傾けて武神の剣を滑らせ、鵲梁自身はくるりと回転して海玄の首を狙う。

 海玄は首巡らせ剣先を逸らして躱すが、閃く速さで手首を返した鵲梁の剣先が浅く振るわれ、鎧の房飾りを一つ音もなく切り落とした。

 突き飛ばそうと左の手で掌底を繰り出した海玄の動きも鵲梁は危うげなくよけ、ふわりと鳥のように跳び上がって元の位置へ着地し距離を取る。

 

 鵲梁の剣には、敵を打ち倒そうという気迫は無い。

 それでいて、ひゅるりと意識の隙間へ刃を潜り込ませるのだ。

 

 舞のように滑らな動きで確実に相手を追い詰める、柔の剣技だった。

 鵲梁の動き自体は剣舞のようにゆるやかに見え、蝶のようにひらりと躱されたかと思うと、蜂のようにひやりと急所を狙う緩急ついた使い手である。

 攻められる方に、覇気も殺気もなしに追い詰めてくる不気味さを感じさせるのだ。

 海玄も例外ではなく、房飾りを切り落とされた鎧のまま、鵲梁を睨みつけた。

 

 鵲梁の剣術は確かに修練を重ねた巧みなものだが、彼はあくまでも戦う神ではない。

 縁を結び、子を守り弱き者たちからの祈りを受ける神だ。

 一方の陸海玄は武の神の眷属であり、自身も単独の神としてそれなりな信仰を集めている。

 

 神々は、信者の信仰によって己の姿形や特性が変化するのだから、いくら剣を持つとはいえたかが縁結びと子守りの神が武の神に正面から剣一本で対抗するのはまずあり得ぬ話だった。

 本来なら、海玄の剣を受け止めたときに鵲梁は力負けしていなければおかしい。

 しかし、鵲梁は海玄の力を受け流しただけでなく、反撃に転じて鎧の飾りを苦もなく切り落としたのである。

 まず、あり得ぬことだった。

 

 動揺を悟られぬよう剣を真横に構え直し、海玄は問う。

 

「青義道人殿は、子守りの神ではなかったのか?」

「そうだぞ。子守りと縁結び、あとは子授けもよく祈られる。最近は歌やら舞の上達まで願う女児もちらほらと。俺は子守歌と毬遊びしかしてやれんと言うのに、人の祈りには限りがなくて敵わんな」

 

 愚痴めいたふうに口で言いながら、鵲梁は剣を真っ直ぐに持ち、左足を微かに浮かせた構えを取る。

 茶色がかった二つの瞳は澄んでいて、己を剣ごと両断する力がある武神を相手にしていることへの恐れなど欠片もない。

 

 そも、この飄々とした相手は一瞬も武神の覇気に威圧などされていなかったことに海玄は気づき、一瞬瞑目してから剣を鞘に納めた。

 

「お?」

「勝負はここまでにする。確かに貴殿は力ある神のようだ。武神たる私へ口を出すだけの武を持ち、この土地に馴染み、龍神からも信を置かれている」

「ということは、阿丈の捕縛はやめてくれるのか?」

「一旦は退こう。だが、もしもう一度龍公女が天界門めがけて火を放とうものなら、次は我々屠龍殿の者が蝗のように央山を囲むだろう」

「それは俺が起こさせぬ」

 

 鵲梁も剣を鞘に戻し、背後にいた歌雲と無丈をふり返る。

 歌雲は笑顔のまま駆け寄って来て無丈を差し出し、鵲梁はそれを受け取って首を傾げた。

 

「いきなり戦いになって驚いたろう。大丈夫だったか?」

「平気だよ。やっぱり青義道人様は強いんだね」

「んー……まァな」

 

 武神に対抗できた強さの訳を指摘された気がして、鵲梁は少し気まずげに無丈の柄を握った。

 

 素の実力だけで、武神へ立ち向かえたわけではないのだ。

 無論鵲梁の剣の腕もあるが、武神をあしらえた強さにはからくりがあった。

 その仕組みを、どうしたことか歌雲に指摘された気がしたのだ。

 

 多少珍しい瞳があるだけの人間の子には、わからないはずだと思うのだが、先程から歌雲と話すとどうもいつもの調子を保てない。

 

 けれど今は考えても詮方無いと、鵲梁は手にした無丈を改めて見下ろした。

 この剣、凄まじい力を秘めていると発覚したはいいが、鞘も何もない状態で放り投げられたのだ。どうにかして、持ち運びしやすくせねばならない。

 責任を取ると言った以上、阿丈を殺せるこの武器を使いこなせるようにならなければならなくなったが、鵲梁の手には長年持っていた黒羽剣のほうが馴染んでいた。

 

 ちなみに、神になる前からの付き合いである黒羽剣にも無丈のような個の意志は宿っている。

 眷属というより怪異に近い存在だが、それはさっきから微妙に不機嫌を訴えていた。

 無丈のように口を開くことはないが、黒羽はしっかりと己の存在は主張してくる。

 

 お前を忘れたわけではないのだと、黒羽の柄を指でこん、と叩いてから、鵲梁は今にも天界へ帰りかけている海玄の背へ声をかけた。

 

「陸殿、少し教えてほしいことがあるのだが」

「何だ?」

「阿丈を鎮めるために天界へ一度行く必要があるのだが……どうやって行けばいい?」

「はぁ?」

 

 天界より地へ降りてからずっと謹厳な立ち居振る舞いを崩さなかった青年将軍は、そこで初めて表情を崩して呆れた顔になった。

 

「神になってから、一度も天界へ上がったことがないのか?」

 

 信じ難い話を聞いたと言いたげに眼を細める海玄の視線に、鵲梁は頬をかいた。

 

「うむ。俺は少し変な成り立ちで神になってしまってな。それでなんとなく気おくれしたり、阿丈の相手をしていたりでずるずると……行きそびれていたのだ」

『無論、白公子は慣れぬ神の仕事に励まれていたからという理由もございますから!むしろそのせいで、天界へは行きたくとも行かれなかったのです!』

「……わかった。今回は私が連れて行こう。一度昇れば、二度目は容易くなる」

「おお、助かる!武神に会うのは初めてだが、気前がいい!」

「お前は気楽過ぎではないか?神になってどれほど経つ?」

「二百……二百五十二か三か……それぐらいか?細かい年月は忘れてしまったからなぁ」

 

 あっはっはっは、と笑った鵲梁である。

 事実、年月に関して彼の勘定は曖昧である。

 人間でなくなってから一気に時の流れに対しての感覚がずれ、気づけばそれだけの時が過ぎてしまっていたのだ。

 仮にも、武神を正面から剣であしらったとは思えぬ気負いのなさだった。

 

「まぁいい。手を出せ。天界へは一瞬で辿り着く。手を離せばどこかへ放り出されると心得ろ」

「あいわかった。ではな、少年。もう家へ帰れよ」

 

 少年に振り返って笑顔を見せ、鵲梁は海玄の手を取る。

 不思議と振り払えない、変わった気配の少年だったが、もう会うことはないだろう。

 神と人が関わりすぎては、良いことなど何ひとつ無いのだから。

 鵲梁のその背中に、軽い声がかかった。

 

「うん、またね。白の兄さん」

「ん?」

 

 如何にも含みのある言葉に振り返ろうとした瞬間、鵲梁の視界は白い光に塗りつぶされる。

 同時に内臓が持ち上がる浮遊感を感じ、彼の意識は一瞬飛びかけた。

 引き戻したのは、海玄かいげんの冷静な声である。

 

青義道人せいぎどうじん、到着したぞ。ここが天界だ」

「は?もうか?」

「もう、だ。力ある神ほど、天界と下界の行き来は容易い。今回は屠龍殿としての力を使って行ったから速いのだ。次からは己の通力のみでやれよ」

 

 海玄はすぐさま鵲梁の手を離し、そう言い放つ。

 改めて周囲を見渡し、鵲梁は驚きに口を開けた。

 目の前に聳えるのは、黄金をあしらった白亜の巨大な門である。

 地上の皇帝が住まう都であろうと建造できないほどの荘厳かつ壮麗な門は、【天界門】という額を掲げていた。

 門の周囲は雲海であり、向こう側にあるはずの天の都の形は奇妙なことに何も見えない。

 海玄と鵲梁は、だだっ広い白い雲の中に立っている状態である。

 天界とはこんな掴みどころのない場であったのかと、鵲梁は手日差しをして門を見上げた。

 

「……なぁ、陸殿。俺の見間違いだろうか?門のてっぺんにある黄金の飾り、少々焦げてはいないだろうか?」

「それが阿丈龍公女の放った火柱の被害だ。未だ直っていないのだから、あまりじろじろ見るな」

「あやつ……これほど立派な門を焦がしておったのか。壁は焦がさずに飾りだけ焦がすなど……」

「だからこそ私がすぐに向かったのだ」

「ん?屠龍将軍から言われて遣わされたのではないのか?」

 

 手日差しを下ろした鵲梁の問いに、海玄は僅かに目を逸らした。

 

「言われてはいない。私の独断だ。だが、前々から阿丈龍公女の話は天界へ届いていた。そこへ来て、央山の神の一柱であるお前が天界へ初めて訪れたのだ。中へ入れば、恐らく噂好きな神が寄って来ることだろう」

「ならば隠れて行くか。陸殿、ついでに教えてくれ。文神筆頭の【広寿文天君こうじゅぶんてんくん】はどこにいるだろうか?」

「……彼の宮殿は、天界の東にある。最も大きな宮殿だから、辿り着けばわかるだろう。だが、あそこへ何をしに行くつもりだ?」

「人探しだ。人探し。俺は龍神の恋人を探さなければならんからな。天界の文神の宮殿には、地上の人間たち一人ひとりの足跡が収められていると聞いたことがあるからな。そこから探そうと思っているのだ」

「おい待て。龍公女が暴れた原因は、まさか人間の恋人に逃げられたことなのか?」

「ああ。何百年も前の恋らしいがな。力ある道士だったというから、何某か記録はあるだろう。死んでいようが生きていようが、俺は阿丈のとこへそいつを連れていかねばならん」

 

 最初と比べれば随分と砕けた口調になった陸海玄は、意表を突かれたように黙る。

 鵲梁は今一度、胸の前で手を合わせる礼を取った。


「とにもかくにも助かったぞ陸殿。ありがとう。縁があれば、またどこかで会おうぞ」

「……ああ」

 

 龍の剣と黒い剣を携えた人上がりの神は、こうして神となって初めて天界の門をくぐったのだった。

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