労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈27〉

 「マジメに働く者が報われる、当たり前の社会を!」などと、世の政治家たちは「当たり前のように」異口同音のスローガンをぶちあげる。彼らの言う通りいずれは本当に報われることとなるにせよ、案の定結局は報われないままで終わるにせよ、何であれ彼らの頭の中では「誰もが働いていることが当たり前」という前提が疑われることは全くないようである。それがまたこの現代社会において「生活・生存維持のための最低条件」であるということも。無論これは言うまでもないことだが、「われわれ現代人」誰しもの頭の中においても、それは全く同じことなのだ。

 しかし、かつての時代において「労働する」ということは、人間が自らの生活を維持する「方法の一つ」であったのにすぎず、そしてそれが「方法の一つにすぎない」のである限り、もし「その他の方法によって自らの生活を維持していける」というのであれば、それはそれで別に構わないことであった、別に「全ての人が額に汗して自分のパンを稼ぐ必要は全くなく、そうするのはむしろ、問題を解決し義務を果たすための一種絶望的な最後的手段」(※1)でさえあると考えられていたのだったと、アレントはトマス・アクィナスを参照しつつ指摘を加えている。

「…労働とは、人類の生存を維持する自然な方法にすぎなかった。…」(※2)

「…キリスト教哲学、とくにトマス・アクィナスになると、労働は生きてゆくために他の手段をもたない人びとの義務となった。(…中略…)しかしこの義務というのは、自分の生命を維持することであって、労働することそのものではなかった。だから乞食になっても自分を養うことができれば、その方がよかったのである。…」(※3)

 労働は、「どうしてもそうしなければならないときに、そうするより他ないこと」として、「絶望的な最後的手段」とさえ考えられていた。この言葉を逆に取れば、どうしてもそうしなければならないというわけではないときなら別にそうする必要は全くなく、他の何かで「埋め合わせる」(しかしこれはあくまでも「満たす」ということではない)ことができるならそれで十分だったのだ、ということになろう。

 しかし、いつしか人間自身の生存維持は、「労働することに、その全てがかかってしまう」という事態になってきてしまった。そしてそれが「絶望的な最後的手段」であるからこそ、もしそれがなくなってしまうと、人間にできることはもはや何もなくなってしまうところとなる。ゆえにそれを失うまいとして、人間はよりいっそう「労働に依存する」ことになる。もはや「労働によって生活を維持していくこと」というよりも、むしろ「労働すること自体」の方が人間の生活にとって最重要事であるかのようにさえ思えてくるほどに。かつては「絶望的な最後的手段」とさえ考えられていたものが、今となってはもはや「生きることの大前提」となり、生きることそれ自体の全てが、労働へと一元化されていく。


 ところでアレントは人間の基本的な活動力を、労働(labor)・仕事(work)・活動(action)および思考(thought)というように分けた上で考察を加えている。多くの論者たちが、この「区別」を自説の論拠ともしているわけだが、しかしそれらの大半は、こういった区別があたかも人間の諸活動を「前提づけている」かのように考えているようである。少なくともそれを「鵜呑みにしている」様子なのは疑いえない。

 だが、アレント自身が慎重にことわりを入れているように、こういった区別が人間の自然・本性(human nature)において、あらかじめ内在しているというわけでは全くないし、それら区別された諸要素を足し合わせれば人間の本性になるというわけでも全くない。結局のところ、それら表象された人間活動の諸要素とは、この世界に存在し、それに対応している限りでの「人間の条件(human condition)」を表現しているのにすぎない。アレント自身はあまり評価していなかったらしいが、あるいはこれをスピノザの考えにもとづいて、「同一の事物をそれぞれの属性において表現している」というように見ても、それはあながち的外れではないだろう。

 ともあれアレントが何よりも批判したかったのは、これら諸要素の中で「労働」だけが突出して浮かび上がっている現代の社会についてであろう。労働だけが他のものから切り取られ、あたかもそれだけが他のものから「自立して存在」し、あたかも「それのみで世界が成立している」かのように、誰もが疑いもせず自らの日常活動の基盤としている、この「現代」という奇妙な一時代。

 そして、他の活動様態から切り取られ、それのみが突出して浮かび上がらせられた「労働」を抽象化し一般化したものこそ、他でもない「労働力」という概念なのである。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 アレント「人間の条件」

※2 アレント「人間の条件」志水速雄訳

※3 アレント「人間の条件」志水速雄訳


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