労働力の問題 (『脱学校的人間』拾遺)〈21〉

 「買いたくない労働力商品」を買わない理由として、買い手である資本は、当の労働力が有する「能力」について持ち出してくることもある。しかし、労働市場で実際に買われているのは、あくまでも能力ではなく労働力である。

 もちろん、市場で買われたその労働力に含まれている「ある種の能力」は、その労働力を買い取った使用者が生産手段としているその生産過程で、何らかの形で使用されることもあるだろう。だがその能力を全く使用しない生産過程において、当の労働力を生産手段として使用したとしても、それは全く「その使用者の自由」なのだ。まさしく「そのようなものとして、その労働力は買い取られている」のだから。

 逆に、だからこそ「その労働力」は、たとえその能力を喪失したとしても、「労働力としては廃棄されず」に、別の生産過程に導入されることもありうるし、また、そうすることができるのである。


 たとえば「トラック運転手として雇用された従業員」がいる。しかし何らかの理由でその業務を続行することができなくなったとしても、何かそれとは別の業務、たとえば運行管理の事務職などに配置転換されることで、彼が引き続き雇用されるということは、よくある話だろう。たしかに「彼の労働力を買った、その主な理由」は、まずもってそのトラック運転能力にあったのかもしれない。使用者がその労働力を買った時点ではたしかに、「その労働力をトラック運転手として使用するつもりだった」のであろう。しかし「別の業務でも使用できる」というのなら、何も「トラック運転手としてのみ使用すること」にあえてこだわり固執する必要もなかろう。

 「一般的な」労働力であるならば、たとえそれをどのような形で使用してもかまわない、実際どのように使用するのもそれは使用者の「自由」であり、どのようにでも使用することのできる「一般的な生産力として、その労働力は実際に買われている」のだから。そのようなものとして買われた労働力が、現実としてまずは具体的に「トラックによる荷物運搬という生産過程において、実際に使用されている」わけだ。労働力の生産力とはまさしくそのように使用者の自由と、およびその現実的な必要にもとづいて実際に使用されるものなのである。


 ところで、ここであらためて言うとトラック運転手として雇用された労働者である彼に支払われる賃金は、彼がトラックを運転した「報酬」として支払われるのではなく、彼の労働力の使用者が、「彼の労働力を専有している代金」として支払われているものである。彼が「他の労働環境でトラックを運転したり、その他の業務や、あるいは何か個人的な活動をしたりする自由を、一定期間において彼の労働力の使用者が奪い、彼の一般的な活動力を独占的に専有していることの代償」として、彼に賃金が支払われているのだ。

 だからもし、その一定期間に彼が一度もトラックを運転しなかったとしても、彼には賃金が支払われるであろうし、また支払われなければならない。そもそも「賃金」とはそういうものである。たとえその労働力にどのような能力が備わっていたとしても、その能力が発揮されたことに対する「報酬」としてではなく、「その能力を含む労働力を、その使用者が専有していることに対する代償」として賃金が支払われるのだから、賃金は、直接その能力に対して支払われているのではなく、むしろ「その能力とは無関係にでも賃金は支払われうるし、また支払われなければならない」ものなのである。

 ゆえに、たとえその労働力にどのような能力が備わっていたとしても、使用者はあくまでも「その能力を含む労働力」を買ったのであるのにすぎない。労働力は、あくまでも「一般的な労働を提供するからこそ、商品として買われる」のである。


 一方で、労働力の使用者側の、そのもともとの意図として、ある労働力を「トラック運転手としてでも、あるいはそれとはまた別の業務においてでも使用するかもしれないような生産力」として労働市場から買おうとしているときに、もしその労働力が「トラック運転手としては使用できないような生産力」であったとしたら、その労働力はやはり買われないこととなるのであろうし、逆に「トラック運転手としてしか使用できない生産力」としての労働力というのも、同様にやはり買われない可能性がある。両方の生産力を有するものと片方しか有しないもの、そのそれぞれの労働力の価格がもし同程度であるならば、それはなおさらのことだ。

 トラック運転手であれ運行管理の事務職であれ、そのどちらにでも使用することのできる生産力を買うこともできる機会が資本にはあったはずだったのに、もしそのどちらかにしか使用できないような生産力を実際に買うという羽目になったら、それは使用者資本としては明らかに「損」である。そしてまた、そのように「使用することのできない生産力を買う」ということは、「その欠損分の生産力を、それとは別にまたあらためて買わなければならない」ということになるわけだから、ゆえにどちらにしろそのような労働力を買うというのは買い手資本にとって「高くつく」話になるのである。

 さらに、トラック運転手としても運行管理事務職としても使用できるような生産力を、「他のいずれの労働力も同様に持っている」というのならば、当の単体労働力が所有しているトラック運転の能力が、ことさら「その労働力を買う理由」として積極的な意味を持つことにもならない。というのも別にそれは「その当の単体労働力にだけ求められているもの」ではなく、「他のいずれの労働力にも求めうる能力」なのだから。逆に、他のどの労働力も「トラック運転手としても運行管理事務職としても使用できる生産力を持っている」のに、「当の単体労働力は、そのどちらかを持っていない」のだとしたら、やはり「その労働力は買われない」ことになるのである。なぜならそれは「その労働力にも求められているはずだったものなのに、しかしその労働力に対してはそれを求めえないから」である。一般的な生産力を、その単体労働力からは求めえない、それは「一般的な労働を提供する商品としては、明らかに欠陥商品と見なされる」こととなるのだ。


〈つづく〉


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