第49話 義脛、都落の事1
■文治元年(1185)11月
ともかく討手を京へ向かわせよと、頼朝は
[訳者注――北条時政はのちに鎌倉幕府初代執権となる人物である]
[訳者注――重忠は『義脛平家の討手に上り給ふ事2』で頼朝からの義脛討伐の依頼を断っている]
後陣は
十一月一日のこと。
義脛は
[訳者注――土佐坊による襲撃の前に義脛は朝廷に対して頼朝追討の宣旨を求めていたが、襲撃を受けたという事実を得た上で改めての奏上となる]
「義脛が命を捨てて朝敵を平らげたのは、先祖の恥を雪ぐためではございますが、お上のお怒りを鎮めるためでもございました。しかれば朝恩として特別の褒美をいただくべきところなのに、鎌倉の源二位(源頼朝)が、義脛に野心があるとし、追討のために官軍を遣わすと聞いております」
[訳者注――頼朝が治める鎌倉が大きすぎる力を持たないように、後白河法皇は義脛に近づいて兄弟の間に亀裂を生じさせようとしたという研究もある]
「本来であれば逢坂の関より西は義脛が賜わるべきと考えておりますが、さしあたり四国と九州だけでも賜わって京を離れたく存じます」
[訳者注――義脛は平家討伐の戦功が抜群であったのは間違いない。とはいえ梶原景時の讒言にもあるように、問題のある行動も多数とっている]
これに対して朝旨を定めるため、公卿会議が開かれた。
「義脛が申すところも不憫ではあるが、この願い通りに宣旨を下せば頼朝の怒りは深いものとなるであろう。また宣旨を下さなければ、木曽義仲が都で振る舞ったように義脛が振る舞えばまたしても世は乱れるであろう」
[訳者注――当初、義脛は木曽義仲を討つために京へ兵を率いてきた。京における義仲の振舞いは公卿たちから見れば酷いものであったが、義脛は京に秩序をもたらしている。だが義脛の機嫌を損ねれば義仲のようになってしまうかもしれないという恐怖心が公卿たちにあったのが見て取れる]
「どちらにせよ、頼朝が討手を都に上らせた以上、義脛に宣旨を下し、一方で近国の源氏どもに命じて、義脛を大物の浦(兵庫県尼崎市にあった港)で討たせるべきではないか」
[訳者注――恐怖する一方で、貴族たちにとって武士は命令に従うものであるという思い込みもあった。そのあたりの思惑が透けて見えている]
このように各々が申したので、頼朝討伐の宣旨が下された。
こうして義脛は西国へ下ろうと京を出て行くことになった。
ちょうど西国の武士たちが数多く京に上っていたが、義脛は
[訳者注――緒方惟栄のこと。豊後国大野郡緒方荘を領地としていた]
「九州を賜わったので下ることにした。ついてはお主を頼りにしたいのだがどうか」
「菊池次郎がちょうど上洛しておりますれば、きっと呼ばれるおつもりでございましょう。この菊池をお討ちいただければ、喜んで命に従います」
[訳者注――
義脛は弁慶と伊勢三郎を呼んで相談をした。
「菊池と緒方、どちらが頼りになるか」
「それぞれ良いところがございますが、菊池の方が頼りになりましょうか。けれども武の勢いにおいては、緒方の方が勝っているかと」
[訳者注――菊池は九州の広い地域に影響を持っていたので、このような評価になったのであろう]
義脛は「菊池に頼もう」と申し、今度は菊池を呼びました。
「仰せに従いたいと思いますが、息子を関東に遣わしております。父子が別れて双方にお味方することになるのはいかがでございましょうか」
義脛は「ならば討て」と申した。
[訳者注――義脛の判断は酷いものだと思われるが、いつ裏切るかわからない者を頼ることはできないと判断したのであろう。とはいえ、家を残すために親兄弟でそれぞれの陣営に加わって戦うことはこの当時にはよくあることであった。頼朝や義脛の父・義朝は保元の乱で父親の為義と別陣営に所属して戦っている]
武蔵坊弁慶と伊勢三郎を大将として、菊池の宿所へ兵を差し向けると、菊池は矢種をすべて射尽くして戦い、最後は家に火をかけて自害した。
こうして緒方三郎が義脛の味方に付いた。
義脛は叔父である備前守(源行家)とともに、十一月三日に都を出発した。
[訳者注――この時、義脛は九州の地頭に、行家は四国の地頭に任じられている]
「この義脛の初めての国入りなのだから盛大にせよ」
そのため上品な出で立ちであった。
その頃、
[訳者注――白拍子は女性に白い狩衣を着せて男装させ舞を踊る]
義脛は黒き馬で太くたくましく、たてがみも見事な大黒に、白覆輪の鞍を置いて乗っている。
赤地の錦の直垂に、新調した鎧はつけずに小具足だけを付けていた。
[訳者注――小具足は籠手や臑当てなど装備品のこと]
それまで使っていた緋縅の鎧と兜は土佐坊の襲撃で功のあった喜三太に下賜していた。
[訳者注――義脛は平家との戦いの後に
背格好も似ており、緋縅の鎧を着た喜三太はまるで義脛のような凛々しい武者姿であった。
家来たちは黒糸威の鎧を着て、黒い馬に白覆輪の鞍を置いて乗った者が五十騎。萌黄威の鎧に鹿毛の馬に乗った者が五十騎と馬の毛色を色分けし、その後ろはさまざまな色の馬が百騎、二百騎が続いていた。総勢は一万五千騎余りであった。
[訳者注――頼朝へ協力するつもりだった御家人も多く、従った武士の数は義脛の想定していた数よりもかなり少なかったのではないかと思われる]
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