第30話 弁慶、義脛と君臣の契りを交わすの事2

 清水寺の正面に参って御堂の中を覗いてみれば、読経の声は人それぞれだったが、特に正面にある内側の格子のそばから法華経の一巻の冒頭を尊く読み上げる声が聞こえた。


「ああ、不思議なことだ。このお経を読む声はあの男の『憎い奴め』と言った時の声によく似ている」


 と弁慶は思った。


 近寄って誰なのか見てやろうと、手にした長刀を正面の長押の上に乗せ、腰につけた太刀だけを持って大勢いる中に入っていく。


「御堂の役人である。通していただきたい」

[訳者注――嘘である]


 そう言いながら肩がぶつかるのも気にせずに押しのけて進んでいった。


 義脛はお経を読んでいたが、弁慶はその後ろにやってきて足を踏ん張って立った。

[訳者注――これぞまさに弁慶の仁王立ちである]


「おお、なんと厳めしい法師なのだ。その背の高さよ」

[訳者注――弁慶は体格がよく、幼い頃に疱瘡を患いそのあとが顔に残っている]


 御燈火の影からこの姿を見た人が驚いている。


 どうやってここにいることを知って来たのだろうかと義脛は思ったが、弁慶は義脛を見つけることができないでいた。


 それは、さっきまで義脛は男の格好をしていたが、今は女の格好をしてきぬを被っていたからである。

[訳者注――女と間違われたのは『鏡の宿で吉次が泊まった宿に強盗が入る事』でも描写がある。もしかしたら女装が趣味になってしまったのかもしれない]


 武蔵坊は義脛が見つけられずに焦っていた。

 このままでは仕方ないので、自分から動くしかないと思って太刀の尻鞘で義脛の脇の下を強く突いて問い質す。


「お前は稚児か女か。わしも参ったのだ。あちらへ寄ってくれ」


 と言ったが返事はなかった。


 こうして脅しても平気でいるということは只者ではない。この者こそ目的の奴だと弁慶は考えた。

 そして再び強く突いた。


「無礼な奴だな。お前のような乞食は木の下、萱の下でお経を読めばいいのだ。御仏はあちらこちらにいらっしゃるのだから願いは聞き届けられるであろう。多くの人がいる場所で乱暴だぞ。ここから出ていくがいい」


 と義脛が言った。


「つれないことを言うではないか。昨日の夜に出会った中であろう。そちらへ参るぞ」


 弁慶は言い終わる前に二畳の畳を乗り越えて、義脛の横に座り込んだ。

 人々はなんて無礼で厚かましいのだろうと憎く思った。


 義脛が手に持っていたお経を弁慶が奪い取ってざっと開く。


「おお、お経ではないか。お主の経か。それとも他の誰かのものか」


 しかし義脛は返事すらしなかった。


「お主も経を読むといい。私も読もう」


 そう言って義脛はお経を読み続けた。


 もともと弁慶は西塔に聞こえた読み手である。

 義脛は鞍馬寺で子供の頃から習っていたので、弁慶の甲の声と義脛の乙の声が入り混じって二巻の半分ぐらいまで読んだ。

[訳者注――甲と乙はお経を読むときの二音のこと。甲は高く、乙は低い]


 参拝していた人たちが一晩中鐘を鳴らす永夜撞きも次々に静まり、修行者たちも鈴の音も止めて、二人の読経に耳を傾けていた。

 二人の声はすみずみまで澄み渡り、あまりに尊いものであった。

[訳者注――二人とも優れた読み手であるから当然のことなのかもしれないが、さぞや素晴らしいお経だったのだと思われる]


 しばらくして義脛が立ち上がった。


「知人の所へ立ち寄る。また会おう」


「今、目の前にお主がいるだけで我慢できないのに、次のいつかを待つことなどできぬ。ここから出るがいい」


 そう言って義脛の手を取って南側の扉のところに連れ出した。


「お主が持っている太刀がどうしても欲しくてたまらぬ。それをよこすのだ」


「これは大切にしている太刀だから渡すわけにはいかんな」


「それならば勝負をしようではないか。武芸で決着をつけよう。勝負に勝ったらわしがいただく」


「それならかかってくるがいい」

[訳者注――無茶振りをする弁慶も弁慶だが、それをあっさり受け入れる義脛も義脛である。ある意味で似た者同士なのかもしれない]


 そう義脛が言うと、弁慶はすらりと太刀を抜く。

 義脛も太刀を抜いて散々に打ち合った。

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