第28話 弁慶、洛中にて人の太刀を取りし事

 人が持つ貴重な宝というもは千個揃えてこそ価値を持つものであると弁慶は思った。


 奥州の藤原秀衡は名馬を千頭、鎧具足を千領も揃えて持っている。

[訳者注――『吉次が奥州の物語を語るの事』でも触れたように、奥州には十八万の騎兵がいるとされている]


 松浦の太夫は矢を入れるやなぐいを千腰、弓を千張持っているそうだ。

[訳者注――胡ぐいは矢を入れて携帯するための道具のこと]


 このように貴重な宝とは揃えて持っているのが大切なのだ。


 今、自分はそのような宝を持ち合わせていない。それに金がないので購入して揃えることもできない。

 よく考えてみたのだが、夜になったら京中に立ち、人が身に着けている太刀を千振奪い取って我が宝としよう。

[訳者注――何故そういう発想になるのか、まるでわからない]


 そうして夜な夜な他人の太刀を奪い取るようになった。

[訳者注――有名な弁慶が千本の太刀を集めていたという逸話である]


「最近、洛中に身の丈が一丈(約3メートル)はある天狗法師が出歩いていて、人の太刀を奪い取っている」


 しばらくそれを繰り返しているとそんな噂が流れるようになった。


 このようにして今年も暮れて翌年の五月末、六月の初旬には多くの太刀を手に入れた。


 弁慶は樋口烏丸にある御堂の天井に奪った太刀を隠しておいた。

 数を数えてみると九百九十九本ある。

[訳者注――弁慶が書写山を出て京へやってきたのは秋ごろだったので、太刀を集めた期間は9カ月ほどであろうか]


 六月十七日に五条天神をお参りして夜になるとこのように祈念した。


「今夜のご利益として素晴らしい太刀を与えてくだされ」

[訳者注――天神様もそんな願い事をされて困ったことだろう]


 夜が更けると天神の御前を出て、南へ向かっていった。

 そして誰かの家の築地の隅に立って、天神へお参りに行く人の中に素晴らしい太刀を持っている人がいないかと待っていた。


 明け方になり堀川通を下っていくと、雅な笛の音が聞こえてきた。


 この音色を聞いた弁慶は、なかなかよい。夜が更けてから天神へお参りする人の吹く笛だな。吹いているのは法師であろうか武士であろうか。

 もしもよい太刀を持っているのならば奪い取ってやろうと思い、笛の音が近づいてくるのを待って身を屈めて様子を見ていると、まだ若い男が白い直垂を着て、胸板を白くした腹巻に思っていたよりもずっといい黄金造りの太刀を佩いていた。

[訳者注――笛の音、そして黄金造りの太刀を持っている時点で誰が来たのかわかるようになっている]


 弁慶はこれを見て、素晴らしい太刀だ。なんとしても奪い取ってやろうと思って待っていた。


 しかし後になって聞けば、この人は恐ろしい者であったのだが、そのことを弁慶が知るはずもなかった。


 義脛は気配を察し、周囲に注意しつつ椋の木の下を見た。

 そこに怪しげな法師が太刀を脇に挟んで立っているが、彼奴は只者ではない。

 この頃、都で人の太刀を奪い取っている者はこいつに違いあるまいと思い、少しも怯むことなく立ち向かった。


 これまで弁慶は勇ましい者の太刀ですら奪い取っていた。ましてこのような優男であれば、近寄ってその太刀をよこせと言えば自分の姿や声に怯えて差しだすに違いない。

 もしよこさないのであれば突き倒して奪い取ってやると心に決め、弁慶は姿を現してこう言った。


「今は静かに敵を待っているところだが、そこにけしからん者が武具を持って通りかるとはいかにも怪しい。やすやすとここを通すわけにはいかない。通りたくばその太刀をこちらへよこしてから通るがいい」

[訳者注――ただの言いがかりである]


 義脛はそれを聞いてこう答えた。


「近頃、痴れ者がいるとは噂に聞いている。この太刀をそう簡単に渡すわけにはいかないな。欲しいのであれば近寄って奪ってみるがいい」

[訳者注――お手本にしたいほど見事な売り言葉に買い言葉である]


「それではいただきに参ろう」


 そう言った弁慶は太刀を抜いて飛び掛かってきた。

 義脛も小太刀を抜いて築地の下に走り寄る。

[訳者注――ここでも義脛は小太刀を使っている。大天狗から教えられた京八流であろう]


 武蔵坊はこれを見て、


「たとえ鬼神であろうとも、今のわしを相手にできる者などいはしまい」


 と言って、体を開いてぶんと打ち下ろした。


「なんという大力か」


 義脛はまるで雷のように素早く左側へと入り込む。

 弁慶が打ち下ろした太刀は築地の腹に切先が食い込んだ。


 太刀を抜こうとしている隙に、義脛は走り寄って左の足を出して弁慶の胸をしたたかに蹴りつける。

 弁慶は持っていた太刀をからりと落とした。


 それを拾った義脛は、えいやと声を上げて九尺(約3メートル)はある築地の上にひらりと飛び上がった。

[訳者注――この跳躍力は六韜の力であろう]


 弁慶は胸を強く蹴られ、まるで鬼神に太刀を取られたような気がして、茫然と立ったままであった。


「今後はこのような狼藉をするな。お前のような痴れ者がいると聞いているぞ。お前が落とした太刀を持っていこうと思ったが、この太刀欲しさに持っていったと思われるかもしれないからな。返してやろう」


 そう言った義脛は築地の屋根に太刀を押し当て、踏んで歪めてから投げてよこした。

[訳者注――日本刀は横からの力に弱く、比較的容易に曲げることができる]


 弁慶は太刀を取って曲がりを押し直し、義脛の方をいまいましげに見てこう言った。


「思いがけずお主の速さを見せつけられてしまったか。いつもこの辺りにいる者だな。今晩は仕損じたが、次は決して油断はせぬからな」

[訳者注――脅しているのだが、負け惜しみにしか聞こえない]


 ブツブツと呟きながら弁慶は去っていく。


 義脛はそれを築地の上から見下ろしていたが、なんであれ、あやつは比叡山の法師であるのだろうとお思いになった。


「山法師のくせに人としての器量もないのか」

[訳者注――法師なのに人を斬ることばかりを考えているのだなという皮肉である。先の弁慶が義脛の素早さに感嘆した言葉に対して、そういうお前はたいしたことがないなという意味でもある]


 そう義脛が言ったのだが弁慶は返事もしなかった。


 なんであれ築地から降りたところを斬りつけてやろうと弁慶は待ち構えていた。


 義脛が築地からひらりと飛び降りると、弁慶は太刀を振りたてつつ走り寄る。


 義脛は九尺の築地より飛び降りたのだが、地上三尺(約90センチ)あまりのところでまた取って返すように上にひらりと飛び上がってしまった。

[訳者注――つまり地面に着地する前にまたジャンプしたということ。物理法則を無視しした動きである]


 中国の穆王ぼくおうは六韜を読んで八尺(約2.4メートル)の壁を踏んで天に上ったというが、それは大昔の不思議な出来事だと思われていた。

 末代といえども九郎義脛は六韜を読んで九尺の築地から飛び降りる間に宙で引き返すように飛びあがったのである。


 弁慶はその夜はむなしく帰るしかなかった。

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